政治経済レポート:OKマガジン(Vol.552)2025.2.2

2月1日から東海国立大学機構(名古屋大学工学部低温プラズマ科学研究センター)の客員教授も拝命しました。このメルマガでは経済や国際情勢だけでなく、それらに密接に関係する科学技術に関する情報もお伝えしています。名古屋大学の理工系部署の客員教授も拝命したことで、モチベーションも上がります。今後も有意な情報をお伝えできるように努力します。


1.ディープシーク「R1」

1月20日、中国のAI開発企業「ディープシーク(DeepSeek)」が新たなバージョンの生成AI「R1」を公表しました。

同社は、「R1」は米国AI企業の各種チャットボット(会話型のAIロボット)と同等あるいは同等以上の性能を持つうえ、開発コストも極めて低いと説明しました。

そのため「R1」公表直後に米国の最先端生成AIの開発・製造に関係するNVIDIA等の半導体企業やIT企業の株価が暴落。「チャイナショック」と言われました。

ディープシークは自ら製造した生成AI用半導体の開発コストはNVIDIA等に比べると10分の1と説明しています。ディープシークは、限られたリソースの中で効率的にAIモデルを開発しました。

米国が中国に対して行っている先端半導体輸出規制の影響を受ける中、同社は高度なコンピューターチップの入手が困難な状況にありました。

そこで、ディープシークはNVIDIAが輸出規制を回避するために開発したやや性能の低いGPU「H800」を活用し、AIモデルの開発を進めました。

また、ディープシークは他のAIモデルから「蒸留(Distillation)」と呼ばれる手法を用いて、既存のAIモデルの入力と出力のデータを使って新たなAIに学習させる手法を駆使し、大量のデータ収集や学習の手間を省きました。これにより、限られたリソースで高性能なAIモデルの開発を可能にしました。

「蒸留」とは、機械学習や深層学習の分野で用いられるモデル圧縮技術のひとつであり、大規模で高性能なモデル(教師モデル)から、より軽量で計算効率の高いモデル(生徒モデル)へ知識を転移させる手法を指します。

このアプローチは、特に推論速度が重要な環境(モバイル端末やエッジデバイスなど)でのAIモデルの実用化において重要です。

知識蒸留のプロセスでは、まず高精度な教師モデルを学習させ、その出力(ソフトターゲット)を利用して生徒モデルを訓練します。通常の教師あり学習では、正解ラベル(ハードターゲット)のみを使いますが、蒸留では教師モデルの出力情報も活用します。

これにより、教師モデルがどのような不確実性を持っているかも学習し、より高い汎化性能を持つことができます。

知識蒸留は、AIの実用化を進める上で不可欠な技術となっており、特に省エネルギーかつ高速なモデルが求められる場面で活躍しています。

ディープシークの成功はAI業界に大きな衝撃を与えました。特に、米国の大手AI企業が巨額の投資を行っている中、ディープシークは低コストで同等の性能を持つAIモデルを開発したことで、AI開発の常識を覆しました。

ディープシークは米国のAI覇権を脅かすものとして注目され、米国の金融市場にも影響を及ぼしています。また、ディープシークの技術は、AI開発における新たなアプローチとして、今後のAI産業の競争構図を変える可能性があります。

加えて、中国に関連する情報にはアウトプット上の制限が課されているようであり、その使用には安全保障上のリスクも伴います。既に、米欧日等の西側諸国の政府や企業の中にはディープシークの使用を制限する先も出ています。

いずれにしても、AI開発におけるコスト効率やリソースの活用方法に関する再考が求められるようになりました。今後、同社の技術がどのように進化し、AI業界全体にどのような影響を及ぼすか注目されます。

ディープシークは2023年に設立されました。創業者の梁文鋒(リャン・ウェンフォン)は1985年に中国広東省湛江市で生まれ、浙江大学で電気通信工学を専攻し、2010年に情報通信工学の修士号を取得しました。

その後、2015年に大学時代の友人と「High-Flyer」という量子ヘッジファンドを設立し、資産規模を約1000億元(約137億9000万ドル)まで成長させました。 2023年4月、同ファンドは活動範囲を投資業界の外に広げ、汎用人工知能(AGI)の開発に注力することを発表。翌月にディープシークを設立しました。

梁氏は、学生時代から株式銘柄を選別するAIアルゴリズムの開発に取り組み、2013年には投資会社「ヤコビ」を立ち上げるなど、金融とAIの融合に精通した人物です。今後の動静が注目されます。

2.アリババ「通義千問」

「R1」公表直前の昨年12月、「V3」というモデルも公開されています。「V3」と「R1」はディープシークが開発した大規模言語モデル(LLM)であり、それぞれ異なる特徴と用途を持っています。

「V3」は 幅広いタスクに対応する汎用的な言語モデルで、情報検索やコンテンツ作成などの日常的な用途を目的として開発されました。

技術的には「Multi-head Latent Attention」を実装し、メモリ効率の向上と処理速度の大幅な改善を実現しています。情報検索、コンテンツ作成、要約など、幅広いタスクで高いパフォーマンスを発揮します。

1月20日に公開された「R1」は「V3」の後継・兄弟モデルであり、複雑な推論や問題解決に特化した設計が特徴です。

技術的には大規模強化学習を取り入れ、深い推論能力を獲得しています。複雑な数学的問題、プログラミング支援、深い思考や推論が求められる領域に特化しています。

両モデルは「Mixture-of-Experts(MoE)」アーキテクチャを採用しており、モデル全体の中から最適な専門家ネットワークを選択的に活用することで、効率的な学習と高いパフォーマンスを実現しています。

価格設定においては、「R1」の利用料金は「V3」の約2倍。用途や目的に応じて適切なモデルを選択することが推奨されます。

要約すると、「V3」は日常的な幅広いタスクに適しており、「R1」は専門的で複雑な問題解決に特化しています。用途や目的に応じて、これらのモデルを選択することで、より効果的にAIの力を活用できます。

ディープシークが脚光を浴びたことで、Open AIをはじめとする競合企業や米国政府は様々な対応を進めています。

競合企業の代表格Open AIは知的財産保護を強化し始めました。Open AIは、ディープシークが自社の技術を不正に利用している可能性を懸念し、敵対者や競合他社による技術奪取の試みを阻止し、米国政府と協力して知的財産保護を強化する方針を表明しました。

マイクロソフトはOpen AIと提携しています。両者は、ディープシークと関連のある企業がOpen AIの技術から出力されたデータを不正に入手した可能性について調査を進めています。

中国内のライバルであるEコマース大手アリババは、ディープシークの成功を受けて、自社のAIモデルをアップグレードし、1月29日に「ディープシーク超え」を主張する新型AI「Qwen(通義千問)2.5-Max」を発表。アリババは「Qwen 2.5-Max」はディープシーク「V3」を性能面で上回ると主張しています。

アリババのクラウド部門は、微信(WeChat)上の投稿で、「Qwen 2.5-Max」がOpen AI「GPT-4o」やディープシーク「V3」、さらにメタの「Llama-3.1-405B」といった他社の最新AIモデルをほぼ全ての面で凌駕していると述べています。

この発表はディープシーク「R1」が市場に衝撃を与えた直後(9日後)に行われました。ディープシークの成功は、中国国内の競合他社にも影響を及ぼし、アリババを含む多くの企業が自社のAIモデルの性能向上を加速し始めました。

現在のところ「Qwen 2.5-Max」の具体的な技術的詳細や商用化の計画については公開されていません。今後のアリババの動向に注目が集まっています。

ライバル企業だけでなく、米国政府も動き始めました。ホワイトハウスは、中国のディープシークのAIアプリが国家安全保障に与える影響について、国家安全保障会議(NSC)が精査していることを明らかにしました。

トランプ大統領は、ディープシークの台頭を受け、AIに焦点を当てた競争力強化と安全保障上の行動計画の策定を大統領直属チームに指示しました。

米国政府は、中国によるAI向け先端半導体の利用を制限するため、NVIDIA製品の輸出規制を強化しています。しかし、ディープシークは性能が制限されたチップを使用しながらも高性能なAIモデルを開発しており、規制の効果について再評価が求められています。

ディープシークによる低コスト、高性能AIモデルの開発成功は、NVIDIA等の米国半導体企業の株価に影響を及ぼしました。NVIDIAの株価は一時17%急落し、関連企業の株価も下落。これは、ディープシークの成功がAIチップの需要や市場競争に変化をもたらすとの懸念からです。

以上のように、ディープシークの登場により、Open AIやアリババ等の競合企業は技術開発や知的財産の保護を強化しています。米国政府は国家安全保障上のリスクを精査し、AI政策の見直しや輸出規制の強化を検討しています。ディープシークの動向は、今後のAI業界、金融証券市場、国際関係等に大きな影響を与えるでしょう。凄い時代になりました。

3.ブッダボット

急に話が変わるようですが、今週2月9日に千葉の成田山新勝寺にお招きいただきました。講演をさせていただくわけですが、聴衆は全国の僧侶の皆さんだそうです(冷汗)。

「趣味は仏教研究」と公言している仏教好きですので、時々今回のような宗派等の本山や個別の寺院にもお招きいただきます。ここ数年は浄土真宗の寺院の報恩講(親鸞聖人の命日の行事)に呼んでいただく機会が増えています。

今回の成田山新勝寺の講演タイトルは「お任せします」ということでしたので、「AI社会と仏教の関係を考える」としました。

実は、既に「ブッダボット」という仏教仕様の生成AIも登場していますので、このタイトルをずいぶん喜んでくれています。

「ブッダボット」は、仏教の教えをAI技術で再現し、ユーザーの悩みに対して仏教的な観点から回答する生成AIです。開発は、京都大学の熊谷誠慈准教授とAI開発者の古屋俊和さんの協力により進められたそうです。

開発の契機は、熊谷准教授と青蓮院の東伏見光晋執事長との対話から生まれたと聞いています。今から10年近く前の話です。

日本仏教の未来について議論を重ねる中で、伝統的な仏教の知恵と現代のAI技術を融合させるアイデアが浮上。この実現に向け、AIの専門家である古屋さんがチームに加わり、プロジェクトが2019年に始動しました。

2021年にリリースされた初期の「ブッダボット」は、Google社の自然言語処理アルゴリズム「BERT」を応用し、最古の仏教経典「スッタニパータ」から抽出したQ&Aリストを機械学習させることで開発されました。

ユーザーからの質問に対して、経典の文言をそのまま回答として提示する仕組みでしたが、回答が簡潔すぎる、あるいは質問の意図とずれるといった課題がありました。

これらの課題を解決するため、2022年に公開されたChat GPTの最新バージョンも活用し、2023年には「ブッダボットプラス」が開発されました。

「ブッダボットプラス」は従来の「ブッダボット」に加えて、Chat GPTのような生成系AIを組み合わせることで、ユーザーの質問に対して、経典の文言とその解説や補足説明を提供できるようになりました。これにより、より詳細で文脈に沿った回答が可能となりました。

現在、「ブッダボットプラス」は一般公開されておらず、企業向けのワークショップなど限定的な環境での検証が行われているそうです。今後、データセットの拡充やAIモデルの改良を通じて、より多くの人々が利用できる形での公開が検討されています。

このように「ブッダボット」は仏教の教えと最新のAI技術を融合させる試みとして進化を続けており、現代社会における新しい宗教的対話の形を模索しています。

当然ですが、キリスト教やイスラム教の教えを説くことを目的とした生成AIも存在しています。それらのAIは宗教的なテキストや信仰に基づいた教えを提供するものであり、通常は信者や宗教指導者の意見を反映させた形式です。

キリスト教に関連する生成AIは、聖書の教えやキリスト教的な倫理、信仰についての質問に答えることができます。たとえば、聖書の節の解釈、祈りの方法、道徳的指針についてのアドバイスを提供するAIがあります。多くの場合、聖書に基づいた情報を提供し、教義や信仰に関する議論に貢献することを目的としています。

イスラム教に関する生成AIは、クルアーンやハディース(預言者ムハンマドの言行録)に基づいた教えや倫理、宗教的な質問に答えるものです。例えば、イスラムの五行(信仰告白、礼拝、断食、慈善、巡礼)に関する質問や、イスラム法に関する知識を提供するAIもあります。また、イスラム教の倫理観や生活指針に沿ったアドバイスも行います。

これらのAIは信仰に基づく解釈を提供するものの、その解釈や表現が宗派や文化によって異なる場合があります。宗教的な質問や教義に対するアプローチは個々の宗教指導者や学者によっても異なるため、AIが提供する回答は一つの視点に過ぎないことを理解することが重要です。

AIはあくまで情報提供のツールであり、宗教的な判断を最終的に下すのは人間の信者や指導者です。こういった生成AIを使用する場合、正確性や宗教的な敏感さを保つために慎重に活用することが求められます。

ということで、成田山新勝寺ではこういう話も含め、僕自身も「AI社会と仏教の関係を考える」機会にしたいと思います。

聴衆が全員お坊さんなので今から緊張気味ですが、楽しみでもあります。

(了)

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