政治経済レポート:OKマガジン(Vol.426)2019.8.24

2016年6月23日の国民投票でEU(欧州連合)離脱を選択した英国。直前に残留派のコックス議員が殺害される事態が起き(近世英国史で殺害された国会議員は4人目、他の3人はアイルランド問題関連)、国民投票結果を受けてキャメロン首相が退陣、後継のメイ首相も今年7月に退陣、そして現在のジョンソン首相。10月31日に迫るブレグジット(英国のEU離脱)。米中貿易戦争とともに、国際社会と世界経済に大きな影響を与えます。


1.バックストップ

先週、ジョンソン首相が初めての外遊として訪独。メルケル首相と会談し、重い宿題を課せられました。

ブレグジットの懸案となっているアイルランド国境問題を巡り、メルケル首相から30日以内に解決案を示すように要求され、ジョンソン首相はこれを持ち帰りました。

アイルランド国境問題がなぜ懸案なのかを整理しておきます。

英国は国民投票結果を受け、2017年3月29日にEU条約(リスボン条約)第50条に基づき、正式にEU側に離脱を通告。

英国とEUは2017年6月から離脱交渉を開始し、2018年11月に離脱条件をまとめた協定案に合意。

しかし、英議会は同協定案に盛り込まれた北アイルランドとアイルランドの国境管理のための「バックストップ(安全策)」に反発。2019年1月、同協定案は英議会において大差で否決されました。

その後検討された修正案も否決。議会の同意を得られない英国政府は3月と4月の2度に亘って離脱日延期をEUに要請。4月のEU首脳会議で最長10月31日までの離脱延期が承認されました。

4月以降、メイ首相は協定の修正や議会の説得に当たりましたが、閣僚を含む党内外の支持を失い、辞任を表明。7月24日、与党(保守党)党首選で勝利したジョンソンが新首相に就任しました。

ジョンソン首相は、国境問題(バックストップ問題)が解決しなければ英国が関税同盟にとどまる現在の協定案の修正を強く要求しているものの、メルケル首相から英国が自ら問題を解決するようにボールを投げ返された格好です。

バックストップとは何か。バックストップ問題の何がポイントか。

現在、ともにEU加盟国である英領北アイルランドとアイルランドの国境は、人や物が自由に往来可能。ブレグジット後に国境管理をどうするかが課題です。

英国とEUは離脱協定において、北アイルランドとアイルランド間に厳格な国境(ハードボーダー)を設けないことに合意していますが、具体的な管理運用方法は未定です。

当該方法が決まらなかったり、実施が遅れたりした場合でも、北アイルランドとアイルランド間に「開かれた国境」を維持するための保障案がバックストップです。

バックストップは離脱協定に含まれており、具体的な管理運用方法が見つかるまで、北アイルランドの農産物等をEU内で従来と同様の扱いとするため、英国全体がEUの関税同盟にとどまることとしています。

これでは英国がEUを離脱したことにはなりません。新しく就任したジョンソン首相は、EUと交渉し、バックストップを撤回するとしています。

与党(保守党)に閣外協力する北アイルランドの地域政党「民主統一党(DUP)」はEU離脱、英国帰属を重視。厳格な国境管理を求めています。

一方、北アイルランド独立を目指す反英国組織も存在しており、厳格な国境管理に反対。先週、これらの組織の犯行と思われる爆破テロも発生。かつてのIRA(アイルランド共和国軍)の流れにつながる動きでしょう。

因みに、英国とアイルランドは1998年にベルファスト合意を締結。英領北アイルランドとアイルランド間の約500kmに及ぶ国境管理が廃止され、アイルランド島全域が同じルールや行政組織等によって管理運営されることになり、北アイルランドは英国内で特殊な位置づけとなっています。

これにより、約30年続いた北アイルランドの帰属を巡る紛争が沈静化して今日に至っていましたが、ブレグジットが紛争を再燃させかけているこということです。

2.ブリュージュ・グループ

ジョンソン首相はIT(情報技術)等を活用した国境管理方法を検討しているようですが、結局妙案が見つからず、10月末に「合意なし離脱」となるリスクがあります。

訪独後に訪仏し、マクロン大統領と会談したジョンソン首相。ブレグジットの深層を理解するには、英国vs独仏(大陸)、欧州統合の歴史に立ち返ることが不可欠。メルマガ363号(2016年7月13日)を少しプレイバックします。

時はサッチャー首相(在任1979年から1990年)の時代に遡ります。

「鉄の女(アイアン・レイディ)」と呼ばれたサッチャー首相の業績は、第1に「英国病」克服のための国内改革、第2にアルゼンチンとのフォークランド戦争、第3に米レーガン大統領と共闘した東西冷戦対応、第4は欧州統合への対応です。

いずれの業績においても、本質的には英国の主権保持という観点では共通。また、欧州統合に対するサッチャー首相の基本姿勢は、常にドイツに対する警戒心と表裏一体であったと言われています。

レーガン大統領と協力し、ゴルバチョフ書記長を懐柔。冷戦終結を進めた一方で、ドイツ再統一には警戒的。再統一を成し遂げた独コール首相との関係も微妙でした。

欧州統合については終始慎重姿勢。その理由は、欧州統合は遠からず「ドイツの影響力が大きい欧州(German Europe)」出現につながると考えたからです。

英国内にも欧州統合賛成派はいましたが、サッチャー首相は英国の国益のためには「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」も辞さないとの考え。これがサッチャリズムの真髄です。

欧州統合の歴史も振り返ります。日本人を母に持つクーデンホーフ・カレルギー伯に端を発する欧州統合の経緯はメルマガ339号(2015年7月10日)に詳述しています。ご興味があれば、ホームページのバックナンバーからご覧ください。

サッチャー首相が登場した頃の欧州はEEC(欧州経済共同体)、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)、Euratom(欧州原子力共同体)等が並存し、全体でECs(欧州共同体)と呼ばれていました。

英国は農業人口が少なく、農産品を輸入に依存。そのため、サッチャー首相は EC(欧州委員会)予算の7割を占める農業補助金の英国の受け取りが少なく、分担金(拠出予算)から補助金を差し引いた英国の純負担は過大と主張。分担金の払戻しを求めました。

1984年、サッチャー首相の要求は実現。EC諸国からサッチャー首相は利己的で欧州統合に後ろ向きと批判されました。

払戻し問題とともに、サッチャー首相の主要関心事は連邦主義的な欧州統合の実現を阻止することでした。

1988年7月、欧州統合推進派であったドロールEC委員長が欧州議会で演説し、「10年後にはEC諸国の立法の80%がEC起源のものになる」と発言。

その2ヶ月後、サッチャー首相はブリュージュ(ベルギー)の欧州大学院で講演。その切り出しは「この学校は勇気がある。私に欧州統合の話をさせるのは、ジンギスカンに平和共存の話をさせるようなものだ」という名台詞。「鉄の女」の面目躍如です。

講演の骨子は、欧州統合は権力や決定権の分散に配慮すべき、概念的存在である統合欧州が国家主権を侵してはならない、独立国家間の自発的協力こそが重要、等々の内容でした。

このブリュージュ演説は、統合推進派の欧州官僚(ユーロクラット)や独仏等の大陸諸国に対する英国の民主主義、議会主義、自由主義の伝統に基づく反論と言えます。

後任のメージャー首相は1992年にEU条約(マーストリヒト条約)に調印したものの、サッチャー首相の懸念を踏襲し、通貨統合等に関する英国の適用除外(オプト・アウト)を獲得。統一通貨ユーロにも、域内自由移動を認めるシェンゲン協定にも参加せず。

しかし、1997年の総選挙で勝利した労働党のブレア首相は親欧州に大きく舵を切り、欧州統合が前進。

その後、今日のEUの基礎となるリスボン条約が2009年12月発効。欧州理事会議長を実質的なEU大統領と定義し、EUの国家化が進んでいます。

ところが、時を同じくして発生した2008年リーマンショックによる世界景気後退。英国はマーストリヒト条約やシェンゲン協定に参加していないものの、EU加盟国からの大量の移民や労働者の流入が英国人の雇用を奪っているとの国内的反発が強まり、反EU世論が高まりました。

この間、上院議員に叙せられたサッチャー元首相は、欧州統合に引き続き反対。保守党内に反欧州の「ブリュージュ・グループ」が生まれ、賛同者が漸増。サッチャー元首相は2013年に他界したものの、死して影響力を残しています。

2013年1月にロンドンで演説を行った保守党のキャメロン首相。加盟国はEUに過度に委譲した権限を取り戻すべきであるとして、EUと再交渉すること、その上でEU残留の可否を問う国民投票を2017年末までに実施すると表明。

キャメロン首相は、保守党内の「ブリュージュ・グループ」の圧力、反EU世論等に直面し、2015年に迫る総選挙対策として国民投票を打ち出さざるを得ませんでした

国民投票が行われる前提条件は、2015年総選挙で保守党が勝利し、キャメロン首相が続投すること。

幸か不幸か、保守党が勝利、首相は続投。国民投票を断行し、その結果がEU離脱決定。残留を主張したキャメロン首相は退陣。皮肉な展開でした。

3.ユーロ・ペシミズム

サッチャー首相の欧州統合とドイツ再統一に対する慎重姿勢の背景は同根。と言うより、両者は密接不可分、表裏一体。

サッチャー首相のドイツ観を「サッチャー回顧録―ダウニング街の日々」(1993年)から垣間見ると、興味深い内容です。(「」内は回顧録)。

「ドイツは、自らの忌まわしい歴史(ナチス等)を踏まえ、近隣諸国から疎まれたり、自身が再び暴走しないように、欧州の一部に組み込まれたいと思っている。しかし、実際にそうなると、ドイツの影響力は大きく、やがて『欧州のドイツ』ではなく、『ドイツの欧州』になってしまう。」

「ドイツ人は、自分たちが自らを統治することが不安なため、自己統治をする国がないような制度をヨーロッパで確立したいのである。このような制度は長期的には不安定になるのみで、またドイツの大きさと優位性から、均衡のとれないものになるに違いない。ヨーロッパ的なドイツに執着することは、ドイツ的ヨーロッパを創造してしまう危険がある。」

ドイツ再統一は予想を上回るペースで進み、ミッテラン仏大統領とドロールEC委員長は「ドイツを拘束し、ドイツの優位性を抑制するような構造の連邦主義的ヨーロッパ」の構築を目指しました。

サッチャー首相は、こうした動きは結果的に仏独枢軸となり、その先はドイツの優越につながると危惧。

欧州大陸の二大巨頭である独仏連携を阻止するという英国の伝統的外交手法にとってマイナスと判断していました。

さらにサッチャー首相は、ドイツを牽制するために米国が欧州に関与すること、及び英仏が連携することが重要と考えていました。

ドイツ再統一に不安を抱くゴルバチョフ書記長とレーガン大統領に接近したものの、結局両者ともドイツ再統一を妨げることはなく、ミッテラン大統領も英国よりも隣国ドイツとの融和を進めました。

サッチャー首相は、「早過ぎるドイツ再統一は、欧州連邦主義の進展、仏独ブロックの強化、米国の欧州撤退、という3つの憂慮すべき流れを生む」と指摘。

その後の展開はほぼサッチャー首相の予測どおり。ドイツ1人勝ちの現実は、順調すぎたドイツ再統一と早すぎたユーロ導入が主因です。

米国務長官だったキッシンジャーも名言を残しています。曰く「ドイツは欧州には大きすぎ、世界には小さすぎる」。

1970年代以降、EC諸国に漂っていた地盤沈下への懸念、欧州の将来に対する悲観論は「ユーロ・ペシミズム」と言われました。

ブレグジットに伴う今日の混乱は、新たな「ユーロ・ペシミズム」を想起させる雰囲気です。

(了)

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