政治経済レポート:OKマガジン(Vol.364)2016.7.25

米国共和党の大統領候補はトランプ氏に正式決定。「まさか本選挙には残らないだろう」とコメントしていた「米国通」が多かったことを思うと、「まさかヒラリーには勝たないだろう」ともはや断言できないでしょう。この週末、NHKがロッキード事件の検証番組を放映。なかなか見応えがあり、考えさせられました。大統領選挙の帰趨は、日米関係の深層にも大きな影響を与えます。


1.ファブレス企業

7月18日、ソフトバンク(SB)が英国半導体設計企業アーム社を約240億ポンド(3兆3000億円強)で買収すると発表。2013年のやはりSBによる米国スプリント社買収(約1兆8000億円<当時>)を上回る日本企業による海外企業買収の過去最大案件となります。

1株当たりの取得価額は17ポンド。市場実勢(15日終値)に43%のプレミアムを上乗せし、9月末までに全株を現金で買い取るそうです。

アーム社は英ロンドン証券取引所と米ナスダック市場に上場していますが、SBによる完全子会社化に伴い、上場廃止となります。

アーム社は半導体プロセッサー(集積回路)の設計を行い、その設計規格をユーザー(半導体製造メーカー等)に販売。広義のファブレス企業の代表と言われています。

ファブレス(Fabless)とは「Fab(Fabrication, Facility<工場>)」を持たないことを意味する造語です。

ファブレス企業は製品の企画設計や開発は行うものの、製造自体は他企業に委託し、それを自社ブランド製品として販売します。

アーム社のことを「広義の」ファブレス企業と記したのは、同社は自社ブランド製品を販売していないので「狭義(厳密な意味)」のファブレス企業には該当せず、他に例のない新しいビジネスモデル、超ファブレス企業とも言える存在だからです。

半導体メーカーは、アーム社が設計した集積回路の設計規格を組み込んで半導体製品を製造。アーム社規格を利用した集積回路を総称して「アームプロセッサー」と呼ぶそうなので、いかにもアーム社が自社ブランド製品を製造・販売しているように思えますが、実態はそうではありません。

半導体業界の巨人インテルが製造するプロセッサーに対し、アームプロセッサーは、導入しやすく(組み込みやすく、導入コストが低い)、消費電力が少ないのが特徴。

こうした特徴が、モデルチェンジの頻度が多く、省電力が至上命題のスマホ等に適合。世界のスマホメーカー等が軒並みアームプロセッサーを使用。今やスマホや通信用半導体分野では9割以上がアームプロセッサーだそうです。

米アップルの最新iPhoneには、通信用やセンサー管理用等、少なくとも5個以上のアームプロセッサーが搭載されているほか、タブレット端末でもシェアを高めています。

2010年の出荷個数実績では、インテルの3.2億個に対してアームは61億個。現在は推計で140億個強。今後5年で約5倍の700億個以上に達すると予測されています。

アームプロセッサーの使用ライセンス料はプロセッサー1個ごとに数円から数10円程度。2015年3期のアーム社売上高は9億6830万ポンド(約1350億円)にすぎませんが、売上高営業利益率は50%超、同純利益率が35%の超高収益企業です。

導入が容易で省電力というアームプロセッサーの特徴が、どのような技術的特性、設計特性で実現しているのかは素人の筆者の理解外の世界。

とは言え、日銀時代にシステム部門にも所属し、コンピューターメーカーのエンジニアから耳学問させていただいた経験から推測すると、アームプロセッサーは「無駄のない、簡素なロジック」で設計されているということでしょう。

同じ作動行為をプログラミングするのにも、腕の良いエンジニアはより少ないステップ数や論理構成でゴールに到達するそうです。同様のことが回路設計でも言えるのでしょう(推測です)。そのことは、低コスト、省電力を導き得ます。

いずれにしても、アーム社はそれを実現可能なハイスキルのエンジニアを多数擁する人材集積企業であり、他社に真似できない設計に関するノウハウや知見を蓄積しているのです。

2.シリコンフェン

アーム(ARM)社のルーツはAcron社という小さなコンピューターメーカー。1985年、自社製PCを製造したものの、成功せず。しかし、搭載した自社製小規模プロセッサーは低コスト、省電力等の特徴が受け、注目を浴びました。

1990年、そこでAcorn社はPC部門を売却。半導体部門をAdvanced RISC Machinesと社名変更し、アップル社等とのジョイントベンチャーとして独立させました。

1994年、シリコンバレーと東京に支社を開設。1990年代、日本はまだ進出先としてシリコンバレーと並ぶ位置づけであったことを想起させるアーム社の社歴です。

アーム(ARM)はルーツ企業の製品名「Acorn RISC Machine」の略称であり、その後の継承企業「Advanced RISC Machines」の略称でもあります。

「RISC」は1980年代に登場した高性能プロセッサー「Reduced Instruction Set Computer」の略。英語の直訳からイメージできると思いますが、命令数を減らし、回路を単純化し、演算速度を高めたプロセッサーを意味します。

RICSの登場に伴い、従来型プロセッサーはCISC(Complex Instruction Set Computer)と呼ばれるようになったそうです。

世界初のプロセッサー「インテル4004」が開発されたのは1971年。以後、8ビットが1980年代前半、16ビットが1980年代中頃、32ビットが1980年代後半から1990年代前半に普及し、2003年には64ビットプロセッサーが開発されています。

その間、プロセッサーは価格競争に直面し、1980年代後半、必然的に登場したともに言えるのがRICSです。アーム社は最初からその分野を専業としてスタートしました。

その後「RISC」が「RISK(危険)」と同じ発音であるため、誤解を回避するために、略称のARM(アーム)社を正式社名とし、今日に至っています。

アーム社が設計する「ARMアーキテクチャー」と呼ばれるRISCプロセッサーは低コスト、省電力。ARM規格「命令セット」を実装したRISCプロセッサーが大量に世界のスマホ等の製品に使用されているということです。

アーム社はイングランド東部ケンブリッジに本社があります。ケンブリッジ周辺のIT企業集積地シリコンフェン(fen)内では良く知られた企業です。

英国のIT企業集積地として最初に発展したのはシリコングレン(Glen)。スコットランド中部に位置するダンディー、インヴァークライド、エディンバラを結ぶ三角地域。

「グレン」はゲール語で「渓谷(バレー)」の意味。おそらく米国シリコンバレーに因んだ愛称であり、スコットランドでは1980年代から定着しています。

スコットランドのシリコングレン成功を受け、イングランドでもIT企業集積が企図され、ケンブリッジ周辺のシリコンフェンと南西部ブリストル周辺のシリコンゴージ(Gorge)に収斂。フェンは「沼沢地」、ゴージは「渓谷」を意味します。

半導体の巨人インテルが恐れるアーム社。社員数でインテルの50分の1、売上高は60分の1にすぎません。

インテルは「半導体の集積度は18カ月で倍になる」という「ムーアの法則」に従い、高性能プロセッサーを世界に先駆けて次々と実用化し、今日の地位を築いてきました。インテルのこの戦略はPCの進化と普及の歴史と軌を一にします。

しかし、2000年代にスマホが登場。インターネット接続のためだけにPCを保有していたユーザーにはPCは不用となり、2010年、世界のスマホ生産台数がPC生産台数を凌駕。PC市場を牛耳ってきたインテルプロセッサーは、モバイル市場ではアームプロセッサーに遅れをとりました。

とは言え、インテルもARMアーキテクチャーのライセンス供与を受けているそうです。完全な競争相手ではなく、その関係は複雑です。

要するに、アーム社は自社プロセッサーの設計規格をインテルを含む全世界のメーカー、多くのIT製品に内蔵させ、壮大な「アームワールド」を生み出しています。

マイクロソフトとインテル(WindowsとIntelで「ウィンテル連合」)は自社技術で市場を寡占化し、参入を阻みながら利益を生み出すビジネスモデルでした。

アーム社の場合、技術を囲い込むのではなく、ライセンス供与によってオープンにしながら、事実上、アーム社の設計規格なしでは製品が成立しない世界を築いています。

ウィンテル連合もアーム社もデファクトスタンダード(世界標準化)狙いのビジネスモデルと言えますが、排他性と特化性の面で大きな違いがあるようです。

3.子会社であって子会社でない

買収に向けたソフトバンクの動きは迅速で大胆でした。7月11日週から買収用のポンド確保のため、ソフトバンクは取引先銀行に大量のポンド買い付けをオファー。

外為市場では当該邦銀の大量ポンド買いの動きが話題になり、その規模は推計2兆円弱。知人の為替ディーラーからも「英国のEU離脱と何か関係があるのか」等々の問い合わせを受けましたが、筆者は知る由もありません。

買収額の約7割は手元資金から捻出するため、ポンド買いと並行して保有株の大量売却を行ったようです。残る3割は邦銀融資によって確保すると報道されています。

英国のEU離脱決定直後だけに、ポンド相場は国民投票前の水準(1ポンド160円程度)から2割弱のポンド安局面。そういう意味では絶好のタイミングでした。

SBは2013年のスプリント社買収(約200億ドル)時も当局の認可前に買収資金の為替予約に踏み切り、2000億円超の為替差益を得ています。

ところで、SBはどんな理由でアーム社買収を決断したのでしょうか。新聞報道から得られる孫正義社長の発言を整理すると、以下の3点です(筆者要約)。

「アーム社には約10年前から関心を持ち、IoT(インターネット・オブ・シングス)時代の鍵と成る企業と認識。アーム社はIoT時代に対応したセキュリティー技術等に強みを持ち、SBとの連携で同分野を強化できる」

「アーム社はSBの中核的事業になるが、携帯電話等のSBの本業との相乗効果については未知数。当面は本業との関連性は薄い」

「経営面ではアーム社の独立性を維持し、SBは中長期的な戦略に関わるなど、一定の関与にとどめる」

通信キャリアはコンテンツ提供者に通信インフラを提供するだけの「土管化」が進むと公言する孫氏。過去の買収事案とは異なり、現時点で本業と関係が薄いことを認めつつ、新たな事業展開を目指すということです。

一方、アーム社のレネ・ハース上級副社長は「車載やIoT分野ではさらなる提携先企業が必要。アーム社のエコシステム(生態系)を拡大していく」と語り、「買収される」というような悲壮感は微塵もありません。

アーム社株は買収前から市場で高評価されていたため、今回の買収金額である43%プレミアム(上乗せ)は異常との指摘もあります。

なぜこのタイミングで、その金額だったのか。それを解く鍵はSBの内紛劇にあります。6月21日、孫氏が後継指名していたニケシュ・アローラ副社長が突然の辞任。マスコミ情報によれば、アローラ氏に背任行為的問題があったとも言われます。その真相を云々する立場にはありませんが、今回のアーム社買収との関係は考えざるを得ません。

SBとしては、アーム社を現に評価し、将来的な買収対象と考えていた。内紛劇がマスコミで取り上げられる中、イメージ刷新、求心力復元を企図しつつ、しかも英国EU離脱でポンド安、参議院選挙与党勝利で株価上昇の環境を考えると、資金捻出には絶好の機会。

アーム社にとっては、ただでさえプレミアムが付いている市場価格の倍近い値段で買ってくれるのであれば、株主や社員にとってプラス。その結果、実質的な経営に変化が生じるのであれば問題だが、その心配はない。なぜなら、アーム社の価値を継続するには、SBが口を挟む余地も技術もないことは孫氏自身が一番良く知っている。

こう整理すれば腑に落ちます。ただ、半導体の世界は盛衰が激しく、ウィンテル連合やそれを追い落としたクアルコム社も安泰ではありません。アーム社も同じです。蓄電機能、電波電力化等の代替技術動向如何では、省電力の必要もなくなります。

世界のIT関係者の誰もが知るアーム社のオーナーはSB孫氏。その冠が必要だったのでしょう。子会社であって子会社ではない関係。それがSBとアーム社の新しい関係を示す当面の最適フレーズのような気がします。

そういう荒技ができるのも今の日本のビジネス界では孫氏のみ。帰趨は予断を抱けませんが、脱帽です。

そして、日本が本来創造すべきはアーム社のような「人材集積企業」。教育や人材投資に十分なリソースを投下しない日本。このままでは展望が開けません。方向転換が必要です。

(了)


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