6月23日、英国の国民投票でEU(欧州連合)離脱が決定。直前に残留派のジョー・コックス議員が殺害される事態に至った英国(近世英国史で殺害された国会議員は4人目、他の3人はアイルランド問題関連)。キャメロン首相が退陣し、次期首相はメイ氏に決定。英国及び欧州動向から目が離せません。
英国のEU離脱、通称ブレグジッド。英国(Britain)、退場(exit)を合成した造語です。離脱派勝利の背景には、移民急増やEUによる主権制限に対する不満がありました。
離脱派の中心は英国独立党(UKIP)党首ナイジェル・ファラージ。保守党の前ロンドン市長ボリス・ジョンソンも加勢。
残留派は、離脱によって英国が受ける甚大な経済的被害の懸念を煽る「恐怖計画(Project Fear)」を展開しましたが、奏功せず。
一方、離脱派によるふたつの主張は奏功。ひとつは、離脱すればEUに拠出している予算が浮き、公的医療健康保険システムNHS(National Health System)に予算を回すことが可能との主張。
もうひとつは、離脱すれば欧州市民(大陸側から渡英者)が減少し、高騰している住宅価格が下落するとの主張。労働党の現ロンドン市長サディク・カーンも住宅価格高騰対策を選挙公約に掲げていたことから、問題の深刻さが伺えます。
庶民に身近な問題を関連づけた結果、離脱派が勝利。選挙キャンペーンに利用し、ポピュリズム(大衆迎合主義)を扇動したとも言えます。
しかし、離脱騒動の深層にはもっと根深い本質的問題が影響しています。それを理解するには、サッチャー首相(在任1979年から1990年)まで遡ることが必要です。
「鉄の女(アイアン・レイディ)」と呼ばれたサッチャー首相の業績は、第1に「英国病」克服のための国内改革、第2にアルゼンチンとのフォークランド戦争、第3にレーガン米大統領と共闘した東西冷戦対応、第4は 欧州統合への対応です。
フォークランド戦争で英国の主権保持の断固たる姿勢を示したサッチャー首相。他の3つの業績も、本質的には英国の主権、とりわけ、ドイツを中心とする欧州に対する英国の主権保持という意味では共通しています。
国内改革は市場原理を重んじたサッチャリズムとして知られています。しかし、サッチャリズムは国内改革のみならず、冷戦対応、欧州対応を含めた対外的な強硬姿勢、「大英帝国の栄光」を守るための主権保持の姿勢全体を指すと理解するのが妥当です。そして、国内改革と東西冷戦への対応は欧州統合問題と密接に関係しています。
欧州統合に対するサッチャー首相の基本姿勢は、市場統合(単一市場)には賛成、通貨統合及び政治統合(予算拠出)には反対。その底流にあるのはドイツに対する警戒心です。
レーガン大統領と協力しゴルバチョフ書記長を懐柔。冷戦終結を進めた一方で、ドイツ再統一には警戒的。再統一を成し遂げたドイツのコール首相との関係も微妙でした。
欧州統合についても終始慎重姿勢。その理由は、欧州の通貨・政治統合は遠からず「ドイツの影響力が大きい欧州(German Europe)」出現につながると考えたからです。
英国にとって欧州統合への対応は常にドイツとの闘い、そして主権を守る闘いと言えます。フランスは地政学的な宿命から宿敵ドイツと交流せざるを得ず、島国英国とは基本的な立場が異なります。
もちろん、英国内にも欧州統合賛成派はいましたが、サッチャー首相は英国の国益のためには「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」も辞さないとの考え。これがサッチャリズムの真髄です。
そのため、サッチャー首相は英国の孤立を恐れた財界・保守党内部から疎まれ、退任に追い込まれました。
日本人の母を持つクーデンホーフ・カレルギー伯に端を発する欧州統合の経緯はメルマガ339号(2015年7月10日号)に詳述していますので、ご興味があればご参照ください(ホームページのバックナンバーにアップしてあります)。
英国のEEC(欧州経済共同体)加盟はフランスのドゴール大統領によって2度拒否され、1969年にようやく承認。
それから10年。サッチャー首相が登場した頃の欧州は、EEC、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)、Euratom(欧州原子力共同体)等が並存する時代。諸組織をまとめてECs(欧州共同体)と呼んでいました。
サッチャー首相は自由貿易の信奉者。英国の経済・貿易のためには、欧州統合が保護主義的にならないようにすることが英国の国益であるとの立場でした。
英国は農業人口が少なく、農産品を輸入に依存。そのため、サッチャー首相は EC(欧州委員会)予算の7割を占める農業補助金の英国の受け取りが少なく、分担金(拠出予算)から補助金を差し引いた英国の純負担は過大と主張。分担金の払戻しを求めました。
1984年、サッチャー首相の要求は実現。EC諸国からサッチャー首相は利己的で欧州統合に後ろ向きと批判されましたが、この間の経緯を詳述した「サッチャー回顧録―ダウニング街の日々」(1993年)は非常に興味深い内容です。
払戻し問題とともに、サッチャー首相の主要関心事は連邦主義的な欧州統合の実現を阻止することでした。
1988年7月、欧州統合推進派であったジャック・ドロールEC委員長が欧州議会で演説し、「10年後にはEC諸国の立法の80%がEC起源のものになる」と発言。
その2ヶ月後、サッチャー首相はブリュージュ(ベルギー)の欧州大学院で講演。その切り出しは「この学校は勇気がある。私に欧州統合の話をさせるのは、ジンギスカンに平和共存の話をさせるようなものだ」という名台詞。「鉄の女」の面目躍如です。
講演の骨子は、欧州統合は権力や決定権の分散に配慮すべき、概念的存在である統合欧州が国家主権を侵してはならない、独立国家間の自発的協力こそが重要、統合欧州は保護主義を排した単一市場を目指すべき、欧州という概念は伝統的・文化的に米国も含む大西洋共同体的なもの、等々の内容でした。
このブリュージュ演説は、統合推進派の欧州官僚(ユーロクラット)や独仏等の大陸諸国に対する英国の民主主義、議会主義、自由主義の伝統に基づく反論と言えます。
翌1989年4月、ドロール委員長はEMU実現(通貨統合)の具体的スケジュールを示すドロール報告を発表。さらに、ベルリンの壁崩壊ひと月前の同年10月、やはりブルージュでドロール委員長が「歴史は加速する。我々も加速しなければならない」と発言。
サッチャー首相はドロール報告やドロール発言に反発し、ドイツの早期再統一、EMUによる単一通貨発行、欧州社会憲章、欧州軍創設等に反対を表明。
しかし、サッチャー首相はEMS(欧州通貨システム)下での為替変動メカニズムへのポンド参加、人頭税導入などで欧州統合反対派から反発を受ける一方、英国の孤立を恐れる保守党・財界等の推進派からも疎まれ、翌1990年11月、退陣を余儀なくされました。
後任のメージャー首相は1992年に欧州連合(EU)条約(マーストリヒト条約)に調印したものの、サッチャー首相の懸念も踏襲し、通貨統合や欧州社会憲章に関する英国の適用除外(オプト・アウト)を獲得。統一通貨ユーロにも域内の自由移動を認めるシェンゲン協定にも参加していません。
1997年の総選挙で勝利した労働党のトニー・ブレア首相は親欧州に大きく舵を切り、欧州社会憲章への参加、欧州安全保障・防衛政策の樹立も容認。
この間、上院議員に叙せられたサッチャー首相は、EU条約、とりわけ通貨統合に激しく反対。保守党内に反欧州の「ブリュージュ・グループ」が生まれ、賛同者が漸増。
2013年に他界して3年、サッチャー首相の影響力はまだ残っています。
サッチャー首相の欧州統合とドイツ再統一に対する慎重姿勢の背景は同根。と言うより、両者は密接不可分、表裏一体。サッチャー首相のドイツ観を「回顧録」等から推測すると、以下のとおりです。
ドイツは、自らの忌まわしい歴史(ナチス等)を踏まえ、近隣諸国から疎まれたり、自身が再び暴走しないように、欧州の一部に組み込まれたいと思っている。しかし、実際にそうなると、ドイツの影響力は大きく、やがて「欧州のドイツ」ではなく、「ドイツの欧州」になってしまう。
「回顧録」には具体的には次のように記されています。「ドイツ人は、自分たちが自らを統治することが不安なため、自己統治をする国がないような制度をヨーロッパで確立したいのである。このような制度は長期的には不安定になるのみで、またドイツの大きさと優位性から、均衡のとれないものになるに違いない。ヨーロッパ的なドイツに執着することは、ドイツ的ヨーロッパを創造してしまう危険がある。」(回顧録359頁)。
ドイツ再統一は予想を上回るペースで進み、ミッテラン仏大統領とドロールEC委員長は「ドイツを拘束し、ドイツの優位性を抑制するような構造の連邦主義的ヨーロッパ」(回顧録372頁)の構築を目指しました。
サッチャー首相は、こうした動きは結果的に仏独枢軸となり、その先はドイツの優越につながると危惧。欧州大陸の二大巨頭である独仏連携を阻止するという英国の伝統的外交手法にとってマイナスと判断していました。
さらにサッチャー首相は、ドイツを牽制するために米国が欧州に関与すること、及び英仏が連携することが重要と考えていました。
しかし現実は、ドイツ再統一に不安を抱くゴルバチョフ書記長とレーガン大統領に接近したものの、両者ともドイツ再統一を妨げることはなく、ミッテラン大統領も英国よりも隣国ドイツとの融和を進めました。
サッチャー首相は、早過ぎるドイツ再統一は、欧州連邦主義の進展、仏独ブロックの強化、米国の欧州撤退、という3つの憂慮すべき流れを生むと指摘(回顧録439頁)。
その後の展開はほぼサッチャー首相の予測どおり。ドイツ一人勝ちの現実は順調すぎたドイツ再統一と早すぎたユーロ導入が主因です。
2013年1月にロンドンで演説を行った保守党のキャメロン首相。EUの地盤沈下を止めるために改革が必要と指摘し、EUの競争力の中核は単一通貨ではなく、単一市場であると主張。サッチャリズムへの回帰です。
さらに、加盟国はEUに過度に委譲した権限を取り戻すべきであるとして、EUと再交渉すること、その上でEU残留の可否を問う国民投票を2017年末までに実施すると表明。
キャメロン首相は、保守党内の反EU派の圧力、EU脱退を掲げる英国独立党(UKIP)の躍進(地方選挙の議席数18倍の伸長)、野党労働党の支持率上昇、反EU世論、「メルコジ」路線(独仏協調による EU寡頭支配)等に晒され、2015年に迫る総選挙対策として国民投票を打ち出さざるを得ませんでした
国民投票が行われる前提条件は、2015年総選挙で保守党が勝利し、キャメロン首相が続投すること。幸か不幸か、保守党が勝利し、国民投票を断行。その結果がEU離脱決定であり、残留を主張したキャメロン首相の退陣。皮肉なものです。
米国務長官だったキッシンジャーが名言を残しています。曰く「ドイツは欧州には大きすぎ、世界には小さすぎる」。
1970年代以降、EC諸国に漂っていた地盤沈下への懸念、欧州の将来に対する悲観論は「ユーロペシミズム」と言われました。英独仏の確執、南欧諸国の財政危機など、「ユーロペシミズム」が再来しかねない雰囲気です。
(了)