政治経済レポート:OKマガジン(Vol.354)2016.2.28

来週から参議院に予算審議が回ってきます。予算の中身に加え、景気動向、国際情勢など、課題は山積です。新党問題も佳境を迎える中、日本はどのような方向に進むべきか、次世代に過酷で過大な重荷を残さないためにはどうするべきか、そういう視点から様々な分野の政策課題を熟考し、審議に臨みます。


1.リスクコミュニケーション

先週24日、福島第1原発(F1)事故当時、メルトダウン(炉心溶融)の判断基準を定めたマニュアルが存在したにもかかわらず、誰も知らなかったという事実が判明。東電が公表しました。

具体的には「炉心が5%損傷していたらメルトダウンと判定する」というもの。この基準に従えば、2011年3月14日早朝には1、3号機でメルトダウンが起きたと認定しなければならなかったそうです。

当時、東電は「判断基準がない」と抗弁。メルトダウンを公式に認めたのは事故発生から約2ヶ月後の同年5月。

報道によれば、今月、柏崎刈羽原発を擁する新潟県との折衝過程で当時のマニュアルを再点検したところ、存在が判明。この5年間、誰も気づかなかったと報じられています。

何とも杜撰ですが、判明したことを正直に公表することは重要です。その積み重ねが新たな取り組みへの第一歩。

わかったことは正直に公表する。わからないこと、確証が持てないことは、安易に断定しない。適切なリスクコミュニケーションに求められる鉄則です。

そうした観点から、復興担当大臣の気になる発言がありました。23日、外国メディアに対し、F1汚染水は「港湾内に完全にブロックされていて、状況はコントロールされている」と明言。

2013年9月、オリンピック招致会合で「アンダーコントロール」と述べて物議を醸した安倍首相を思い出します。

確証が持てないことを断定することは不適切です。「ブロックされている、コントロールされているとの報告を受けている」というのが正確かつ誠実な表現です。

復興大臣自身が地中や海中で見ることができるわけでなく、本人に科学的知見もない中で、そのように断定することは、かえって外国メディアや国民の信頼を損ねるでしょう。

F1汚染水の発生状況、管理状況、及びF1敷地内の地層構造、地下水の実情等について、第三者機関によるチェックは不十分。「完全ブロック」「アンダーコントール」と断定することは適切ではありません。

2013年10月の予算委員会、当時の経産大臣が筆者の質問に対して、放射性物質除去装置(アルプス)によって汚染水から放射性物質を「完全に除去できる」と強弁。

原子力規制委員会委員長に再質問すると委員長は「ゼロにはならない」と答弁。慌てた経産大臣は「計測限界値以下になる」と修正答弁。

筆者は経産大臣に対して「正直に事実を伝えることが結果的に信頼感を高める。事実と異なること、確証のないことを断定的に言うべきでない」と苦言を呈しました。

汚染水を巡る首相や復興大臣の発言、放射性物質除去に関する経産大臣の発言は、「嘘も方便」「信じる者は救われる」とでも言いたげに聞こえてなりません。

そもそも昨年2月、汚染水が外洋に流出し続けていたことが発覚。しかもその事実は一昨年5月から把握されていたことも判明。「完全ブロック」「アンダーコントロール」は明らかに言い過ぎです。

先日、経産省に「事故発生以来の海洋への放射性物質の放出総量」を質問。担当者から、2012年5月時点の観測データに基づいて「ペタベクレル(10の15乗)規模」との報告。

その後の3年間(2013年から2015年)の放出量を加算したデータを再質問したところ、「現在は10の9乗レベルまで低下。加算してもほとんど意味がない」との報告。

聞くと若い担当者は2012年(平成24年)入省。つまり、事故後の入省です。筆者から、次のように申し伝えました。

「数学的にはそのとおりだが、平時に比べれば10の9乗も驚くべき水準。事故直後の10の15乗レベルに加算しても意味がないという説明は適切とは言えない。事故後に入省したり、新たに事故対応部署に配属される人たちが、現在も異常な状態が続いているという認識を持ち続けないと、リスクコミュニケーションに失敗する」。

筆者の率直な思いです。「かつての非常識」が「現在の常識」になってしまうと、いずれはリスクコミュニケーションに失敗し、同じ過ちを繰り返すでしょう。

素直に「そうですね」と反応した若い担当者は真面目な好青年。この若者たちにこれほどの重荷を背負わせてしまった旧世代は大いに反省しつつ、彼らに「かつての非常識」を「現在の常識」として擦り込んだり、強要することがあってはなりません。

2.核燃料サイクル

ところで、今国会に提出される「原子力発電における使用済燃料の再処理等のための積立金の積立て及び管理に関する法律の一部を改正する法律案」、略して「再処理等拠出金法」。核燃料サイクルに関連する重要な法案です。

法案の概要を説明する前に、核燃料サイクルについて整理しておきます。拙著「3.11大震災と厚労省」(丸善出版、2012年)からの抜粋です。

核燃料サイクルとは、鉱石(天然ウラン)から原子炉用核燃料の製造、使用、再処理、再使用、廃棄を行う一連の流れのこと。鉱石採鉱から核燃料への加工までをフロントエンド、再処理以降をバックエンドと呼びます。

核燃料サイクルは、軽水炉を中心にしたウランサイクルと、高速増殖炉を中心としたプルトニウムサイクルからなり、この両方が揃うことで核燃料サイクルが実現。

天然ウランはウラン235とウラン238の2種類。ウラン235は核分裂して燃えるものの、ウラン全体の0.7%程度。ウラン235を燃やす軽水炉だけでは燃料の持続的確保は困難。

一方、燃えないウラン238は原子炉の中で中性子を吸収して燃えやすいプルトニウム239に転化。

その性質を利用し、プルトニウム239の周囲にウラン238を入れておくと、プルトニウム239が燃えると同時にウラン238が新たにプルトニウム239に転化。燃えた量よりも多くのプルトニウム239を生成します。

そのプルトニウム239を取り出して再利用すれば、無限のエネルギーが生成できるというのが核燃料サイクル。プルサーマルはプルトニウム239で燃料を作ることを意味します。

それを担うのが高速増殖炉。プルトニウム239とウラン238の反応は、ウラン235を燃焼させる場合よりも高速・高温の核分裂反応となるため、「高速」という冠がつきます。かつては燃料が増える「夢の原子炉」と言われていました。

そして、軽水炉の冷却材は水、高速増殖炉の冷却材はナトリウム。ここも大きな違いです。

さて、この核燃料サイクル実現のための実験炉が「ふげん」「常陽」「もんじゅ」。実験炉のため、所管は経産省ではなく文科省。

新型転換炉「ふげん」(福井県敦賀市)は日本独自の炉形式。1970年着工。プルトニウムを本格利用する世界初の炉であり、中性子減速に重水を使用。

1978年に運転開始したものの、1995年に実証炉(実験炉の次の段階の炉)建設中止を決定、2003年運転終了。26年かけて廃炉を行い、2029年に解体完了見込み。高レベル放射性廃棄物の恒久処理・隔離・管理が課題として残りました。

一方、高速増殖炉「常陽」(茨城県大洗町)は1971年着工。やはり、基礎研究目的の実験炉。2007年に装置の破損事故が発生。実証炉開発は2050年頃が目標と聞いていますが、冷却材のナトリウム循環を除き、現在も運転休止中。

「常陽」で得られた知見をもとにした原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は1983年着工、1991年運転開始。MOX(ウラン・プルトニウム混合酸化物)燃料を使用します。

1995年にナトリウム漏れとそれに伴う火災事故が発生。当初は事故を隠蔽していたことも発覚し、物議を醸しました。2007年に修復完了し、2010年5月運転再開。しかし、同年8月に再び装置落下事故が発生し、現在休止中。ナトリウムによる冷却を続けています。

上述のように高速増殖炉は軽水炉に比べて高速・高温。冷却材のナトリウムは白濁状で炉内目視が困難。ナトリウム自体も空気に触れると発火、触水で爆発、放射化特性もあり、扱いが困難。こうしたことから、主要国の計画中止が相次いでいます。

日本のほか、ロシア、中国、インドが開発を継続しているものの、米国、フランス、イギリス、ドイツ等は中止と聞いています(事実関係は必ずしも明らかではありません)。

仮に核燃料サイクルが実用化されても、再利用する燃料以外の使用済燃料(高レベル放射性廃棄物)の扱いが難題。最終処分です。現在、使用済燃料の最終処分場は世界中でフィンランドのオンカロ(オルキルオト島)のみ。

1994年、フィンランドは国内全ての核廃棄物を国内で処分することを決定。2000年、オルキルオト島を地層処分(長期地下貯蔵)場所として選定。断層等の影響を受けないと予想される強固な花崗岩盤であったことが選定理由です。

地層処理とは、放射性廃棄物を水に溶けにくい「ガラス固化」処理した後、オーバーパックと呼ばれる「人工バリア」に格納し、地下深くの地層という「天然バリア」の中に隔離する「多重バリア」処理。現状では地球上で唯一可能な最終処分方法とされています。

2004年着工、最終的には地下520メートルに達し、そこから横穴を広げ放射性廃棄物を処分する計画です。2020年までに運用開始。2120年頃までの100年間で施設が満杯になる見通しであり、その後は坑道を埋め戻して封鎖。

使用済燃料に含まれるプルトニウムの半減期は2万4000年。生物にとって安全なレベルまで放射能が下がるには約10万年。その間、使用済燃料はオンカロの地下に封鎖され続けます。因みに、「オンカロ」はフィンランド語で「隠し場所」を意味するそうです。

フィンランド以外の国々では、最終処分場の用地選定段階。設置目標の早い順に列挙すると、フランス(2025年)、スウェーデン(2029年)、ドイツ(2035年)、日本(2030年代後半)、アメリカ(2048年)、スイス(2050年)、ベルギー(2080年)など。

人間は難題を抱えてしまいましたが、ここでもリスクコミュニケーションの鉄則を忘れてはならないでしょう。わかったことは正直に公表する。わからないこと、確証が持てないことは、安易に断定しない。政府には透明性が求められます。

3.嘘も方便

さて、「再処理等拠出金法」の概要を説明します。現在の政府のエネルギー基本計画(平成26年4月閣議決定)では、使用済燃料の再処理やプルサーマル等の核燃料サイクルを推進することを基本的方針としています。

その方針の下、原子力事業者は、共同子会社(日本原燃)を設立し、再処理等事業を共同実施しており、必要となる資金は法律(再処理等積立金法)に基づき、原子力事業者が外部に積み立てて確保しています。

資金管理法人は原環センター(NUMO)。そして、実際に再処理する段階では、資金管理団体から資金を回収し(払い出しを受け)、原子力事業者が日本原燃に委託。

要は資金を預かってもらっているだけで、法律上の資金供託の義務は課されていません。そこで、これを確実に再処理が行われる体制と制度に変えるのが今回の法案。

第1に、資金を単に預かるのではなく、資金拠出を受ける新たな認可法人を設立し、原子力事業者には拠出を義務づけ。第2に、当該認可法人が日本原燃に確実に資金を支払い、同社が再処理を実行。

一見、もっともらしく思えますが、よく考えると問題があります。そもそも法案の背景理由が不条理です。次のように記されています(重要なので全文記します)。

「平成28年4月以降、電力事業の小売全面自由化に伴い、地域独占・総括原価方式が撤廃されることで原子力事業をめぐる事業環境に大きな変化が生じる。原子力事業者の経営状況が悪化し、必要な資金が安定的に確保できないことや、各原子力事業者の共同子会社である事業実施主体が存続できないことにより、再処理等が滞るおそれがあるため、早急な対応が必要」

使用済燃料の再処理や、廃炉、最終処分等の技術や制度が確立していない中で、「原子力事業者の経営状況が悪化し、必要な資金が安定的に確保できない」事態を招くようなエネルギー政策や産業政策を進めようとしていることは論理的ではありません。

さらに、責任主体も問題です。現行法では、使用済燃料の処分責任、費用負担責任、事故責任も全て原子力事業者または再処理事業者(出資者は原子力事業者)。

その原子力事業者の経営悪化に備えて新たに設立する認可法人。しかし、その責任主体は変わらないというのが所管官庁の説明ですが、これは解せません。

なぜなら、原子力事業者の破綻の可能性に言及しているわけですから、その際には原子力事業者は責任主体足り得ません。

そういう事態を想定するのであれば、原子力政策は国が責任を担うのが当然の帰結。原子力事業者の申請に基づく認可法人で国の責任回避をすることなく、国が責任を負う特殊法人または独立行政法人形態を採用すべきでしょう。

余談ですが「ふげん」「もんじゅ」という名前は仏教の普賢菩薩、文殊菩薩に由来。動力炉・核燃料開発事業団(動燃)幹部が発案し、仏教界や国文学界の重鎮とも相談して決定したそうです。

両菩薩は知慧と慈悲を象徴し、獅子と象に乗っています。巨獣の強大なパワーを両菩薩のように制御し、人間の幸福に役立てるという含意と聞きました。

「常陽」は常陸国(茨城県東部)の古称。太平洋に面した明るく雄大な地形に相応しいとして採用されたそうですが、当初は法蔵菩薩に因んで「法蔵」という案もあったようです。

仏教的には菩薩は仏になる前の修行中の身。仏の真理は「人間は自然の一部にすぎない」ことを諭します。修業中の身で、自らを包含する自然の力を自らのために利用するという論理構造には矛盾を伴います。人間はこの矛盾をどう乗り越えるのでしょうか。

目の前にある現実は変わりません。現実と向き合い、政府は適切なリスクコミュニケーションに努めなければなりません。汚染水問題と同様に、「嘘も方便」では困ります。

因みに「方便」も仏教用語。お釈迦様が様々な喩えで教えを説いたことに由来し、悟りへの接近法、あるいは悟りに近づかせることを意味します。

転じて、「時と場合には嘘も必要」「都合よく嘘をつく」という日常的な意味で、良くも悪くも使われます。「完全にブロック」「アンダーコントロール」はどう解釈すべきでしょうか。

現在の政府を担う自民党。その憲法改正草案にはビックリする内容がいくつも含まれています。例えば、憲法改正を目指すものの国民の「知る権利」は明記せず。

その理由として「(知る権利を含む新しい)これらの人権は、まだ個人の法律上の権利として主張するには熟していない」と明記。「熟していない」とはいかにも上から目線。「完全にブロック」「アンダーコントロール」の深層心理が透けて見えます。

次世代に過酷で過大な重荷を残さないよう、職責を果たします。

(了)


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