政治経済レポート:OKマガジン(Vol.337)2015.6.9

国会に参考人招致された与野党推薦の3人の憲法学者全員が集団的自衛権行使容認を図る安保法制を「違憲」と明言。学者の良心に接した思いです。僕自身の安保法制に対する考え方はメルマガ295・298・313・314・315・329号に記しています。ホームページのバックナンバーでご覧ください。ところで、先月末に招聘された日本経済政策学会では「リベラル・パラドックス」がテーマのひとつでした。今回はその話題から始めます。


1.リベラル・パラドックス

リベラル・パラドックスを理解する前提として、「リベラル」の定義を再確認しておきます。メルマガ331号(2015年3月12日)も参考にしてください。

リベラルの源流は英国。本来の意味は権力からの自由、自己決定権重視の思想です。したがって、古典的なリベラルにおける政府の役割は個人の財産や生命を守るための「夜警国家」機能に限定されます。

そうです。リベラルの本質は自由主義。個人の自己責任が前提であり、日本で一般的にイメージされている「リベラル」とは異なる印象を受けるかもしれません。

しかし、リベラルは進化しました。個人の自由や生存権を重視し、時には政府が個人の自由や生存権を守るために介入することを肯定するソーシャルリベラリズムが誕生。ニュー・リベラルです。

これが日本の「リベラル」に近いイメージかもしれません。ちなみに、ニュー・リベラルと区別するため、古典的リベラルをリバタリアニズムと呼ぶこともあります。

リベラルにとって、政府の介入の正当性が鍵となります。この点のキーワードは社会的公正。そして、社会的公正の重要さを指摘したのが米国の哲学者ジョン・ロールズ(1921年生、2002年没)。

ロールズは、社会的公正を高めるためには、生まれながらの格差を是正することなどが必要と訴えました。

ロールズと同様に社会的公正や貧困問題に取り組んだアジア人唯一のノーベル経済学賞受賞者、インドのアマルティア・セン(1933年生)。そのセンが問題提起したのが「リベラル・パラドックス」です。

上記のとおり、リベラルは自由を重んじ、自由を守るために社会的公正も重視します。しかし、「自由」とは権利を主張することと同義。つまり、「私に何々をする自由(権利)がある」と主張することです。

言い換えれば、自分の自由(権利)に基づく決定を、社会に強要する、または他人に文句を言わせないことを意味します。

個人の自由を実現するために、他人の自由を阻害する。簡単に言えば、これが「リベラル・パラドックス」です。

同様の矛盾を少し異なる角度から指摘したのが、米国の経済学者ケネス・アロー(1921年生)。専門的な説明は割愛しますが、大雑把に言えば、民主主義においては全員が納得する合理的決定は困難であることを数学的に証明しました。

アローの「一般不可能性定理」と言われていますが、要するに「民主主義のパラドックス」。

類似の定理として「投票のパラドックス(コンドルセのパラドックス)」「囚人のジレンマ」「愛他主義のジレンマ」等々も知られていますが、解説し始めると読むのを止める読者が続出するので(笑)今回は省略。いずれ、ご紹介します。

自由主義と全員納得は両立しません。だからといって、各人が勝手気ままに自己主張したら世の中滅茶苦茶。

自由主義、リベラルとはかくも難しいものであり、それを何とか乗り越えるために民主主義は「手続」や「統治構造」に次善の策を求めました。つまり、「手続」や「統治構造」を無視して自己主張をすることは過度な「リベラル・パラドックス」につながります。

2.ピース・パラドックス

リベラル・パラドックスについて考えていたら「ピース・パラドックス」という造語が頭に浮かびました。

誰しも平和を望んでいます(そのはずですし、そう信じたい)。どの国も、領土や資源、自国の置かれている立場等々に関して、全く何も不満がない状況を前提とすれば、平和は実現し、維持されるはずです。

こういう状況でも平和を望まない人がいるとすれば、それは誰か。例えば、武器商人。

恒久平和が実現した場合、武器商人が自らの技術等を他の分野に活かし、活路を得られるならば、武器商人も商売替えをして、八方丸く収まります。

「だから武器商人がいなくなればよい」という主張は一見もっともですが、初期条件(恒久平和)が実現していなければ、武器商人を先に失った国はリスクにさらされます。

安保法制も同じことが言えます。戦争や戦力に関することを規定する法律や装備は、平和状態では必要ありません。

平和状態が実現すれば、法律や装備はいらなくなります。では、先に法律や装備をなくすと平和が実現するかと言えば、否(いな)。先に失った国はリスクにさらされます。

もうひとつ、考えてみます。抑止力という概念です。相手より強い武力をもっていれば、相手は攻撃してこないだろうという考えです。

相手がその状態で満足すれば、この状態はずっと維持されます。言わば恒久優劣の関係。抑止力理論において、平和が実現する場合です。

しかし、相手も同じ考えで武力を増強すると、双方の軍備増強が続き、エスカレートします。終わりなきチキン・ゲーム状態であり、むしろ戦争のリスクを高めます。

武力のみならず、どういう場合に武力を行使するかと言う法制や政治判断も同じです。平和のための法制や政治判断と言いながら、そのことが平和を破壊するリスクを高めるというパラドックス。

前項では、自由を追求することは他者の自由を侵害するというリベラル・パラドックスを紹介しました。平和に関するこの矛盾を「ピース・パラドックス」と命名します。

リベラル・パラドックスもピース・パラドックスも、その本質的原因は同じ。人間が愚かであるためです。

環境を破壊し、他の生物(動植物等)を必要以上に殺生し、同種同士でも殺し合う人間。人間は地球上で最も有害な生物であるという自覚が必要でしょう。

3.嘘つきのパラドックス

国際安全保障に関する理論では、平和を実現するための類型を整理しています。例えば、単極平和論は超大国の存在が世界を平和にするという考えです。

双極平和論は圧倒的パワーを有する二大国(二大勢力)の拮抗が平和に資すると考えます。冷戦期の米ソ対立(東西対立)が典型例です。多極平和論は有力な複数国(複数勢力)の拮抗を拠り所とします。

米国の政治学者ブルース・ラセット(1935年生)が唱えた民主的平和論は、民主主義国家同士では戦争になるリスクが低いとする学説です。

歴史的にそうした傾向があることが根拠になっており、米国はこれを大義名分にして他国の民主化を誘導してきました。その傾向は信じたいところですが、懐疑的な面があることも否定できません。

民主化を誘導し、平和を追求するために、時に米国は武力を行使し、民主的であるはずの米国が一番多くの戦争を行っています。まさしく、ピース・パラドックス。

ここで、もうひとつパラドックスを紹介しましょう。哲学や論理学の分野で登場する自己言及のパラドックス。別名「嘘つきのパラドックス」。

嘘つきのパラドックスの事例として語られるのがエピメニデスのパラドックス。哲学者エピメニデスはクレタ人(クレタ島出身)。そのエピメニデス曰く「クレタ人はいつも嘘をつく」。新約聖書中「テトスへの手紙」に登場する言葉です。

クレタ人であるエピメニデスが「クレタ人はいつも嘘をつく」と言った場合、それが真実ならば彼自身の言葉も嘘。これがエピメニデスのパラドックスです。

この問題提起は紀元前5世紀とも6世紀とも言われています。古代ギリシャ人は深いですねぇ。

安保法制の議論において、ピース・パラドックスの見地から多くの国民が懸念を表明しています。それに対して「国民は現実が分かっていない」と言わんばかりの上から目線で自己主張を繰り返す安倍首相。

そういう貴方は国民ではないのでしょうか。典型的な「嘘つきのパラドックス」です。

個人の意見を主張することは自由です。しかし、「手続」や「統治構造」を無視してそれを現実化し、強要することは、他人の自由を侵害するリベラル・パラドックスにも陥っています。

安倍首相は過度のパターナリズム(父権主義)でもあります。国民の安全のためには憲法違反も辞さず、父親としての役割を果たすという自己陶酔状態です

父親になってくれなどと誰も頼んでいません。「手続」や「統治構造」を守り、論理矛盾に陥らず、法理を遵守する理性的な国民の代表こそが、首相に期待する役割です。

因みに、民主主義における意思決定の困難さを示した「アローの不可能性定理」は、独裁者は存在しないという前提です。独裁者が存在する場合、リベラル・パラドックスを物ともせず、独善的、超パターナリズム的な意思決定を強要することが可能です。

独裁者に対する最後の砦は憲法を頂点とする法理。しかし、それすらも無視する独裁者では、手の施しようがありません。私は独裁者や独善主義者は嫌いです。

(了)


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