3月20日の予算委員会で「NHKは『日本放送協会』の略称かと思っていたが、『何と恥ずかしい会長』の略称とは知らなかった」と発言したところ、複数のNHK関係者からエールを頂戴しました。複雑な気分ですが、NHK関係者の気持ちは理解できます。
昨年1月25日、籾井勝人NHK会長の就任記者会見における数々の発言が物議を醸(かも)しました。その後も籾井騒動は続いています。
とりわけ「政府が『右』と言うものを『左』と言うわけにはいかない。政府と懸け離れたものであってはならない」という発言には驚きました。
もとより、政府を無定見に批判する必要はありませんが、マスコミには、可能な限り客観的に事実を伝えること、偏った報道をしないことが求められます。
また、マスコミには、権力に対するチェック機能、国民の「知る権利」に寄与する機能が期待されています。
しかし、安倍首相の再登場以降、政府・与党によるマスコミへの圧力、それに対するマスコミの恭順姿勢と偏向振りには、顎(あご)がハズれる思いです。
昨年末の総選挙直前、自民党から選挙報道に関する「要請文」が報道機関に発出され、僕が出演したTV番組でも放送直前にTV局が「自主的に」出演者を変更(詳細はメルマガ324号のヘッダーをご覧ください)。
総選挙後も状況はエスカレート。読者の皆さんもご承知のとおり、先月末にはテレビ朝日の報道ステーション放送中に、番組降板を巡って古賀茂明氏と古舘伊知郎キャスターのバトルがありました。
その余韻が残る今月6日、文科省が来春から中学校で使用する教科書の検定結果を公表。そのニュースを契機に、重大なことが6年前に起きていた事実を知りました。
それは、教科書検定基準の変更です。同基準は文科省の告示ですから、文科省の裁量で変更可能。その第3章に、次のような基準が付加されていました。
曰く「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には、それらに基づいた記述がされていること」。
読者の皆さんも直感的にいろいろなことを感じたことでしょう。僕としても、この基準にはいくつもの問題が内包されていると思います。
第1に「閣議決定その他の方法によって示された政府の統一的な見解」に従わせようとしている部分。第2に「それらに基づいた記述」を求めている部分。
「それらに基づいた記述」ではなく「それらを客観的に記述すること」であれば理解できます。閣議決定や最高裁判決であっても、後世になって間違いが証明されることもあるからです。
だからこそ、「斯く斯く然々(かくかくしかじか)の閣議決定が行われた」「斯く斯く然々の判決が最高裁判決によって下された」という記述であれば理解できます。中学生が自ら考える力も養えるでしょう。
「それらに基づいた記述」という語感には「それらが正しいと記述しろ」というニュアンスが感じられます。
一番問題なのは第3点。閣議決定は「行政(政府)」が行うもの、判決は「司法」が行うもの。あれ、国権の最高機関である「立法」の判断が抜けています。
憲法第41条に国会が「国権の最高機関」と定められています。全会一致の国会決議や法律は、まさしくそれこそが国としての公式見解。
国会決議であっても、全会一致でなければ政党間で異なる意見があるということです。全会一致の場合でも、国民全員が同じ意見ということはありえません。
だからこそ「それらに基づいた記述」ではなく「それらを客観的に記述すること」、すなわち「斯く斯く然々の国会決議が可決された」と記すことが理性的な表現です。
教科書検定基準の変更が行われていたのは平成21年3月4日。麻生政権の時です。なるほど、「ナチスの手口を学べ」と発言した麻生首相(当時)の真骨頂。
「ナチスの手口を学べ」は一昨年7月29日の発言です。本来なら政権が吹っ飛ぶ発言ですが、最近の「八紘一宇」とかNHK会長発言とか、それらに対する感性が鈍っているのも最近のマスコミの深刻な劣化です。
麻生発言は以下のとおりです。念のため、ご紹介しておきます。曰く「ナチス政権下のドイツでは、憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、学んだらどうかね」。
なるほど、教科書検定基準もある日気づいたら変わっていました。暗澹たる気持ちでこのメルマガを作成していたら、「デストピア」という言葉が脳裡を過(よ)ぎりました。
デストピア(またはディストピア)はユートピア(理想郷)の反対語。デストピアの語源は「悪い」を意味する古代ギリシア語。つまり、デストピアは「暗黒郷」。19世紀の英国思想家、ジョン・スチュアート・ミルが1868年のスピーチで最初に使ったそうです。
その後、英国作家ジョージ・ウェルズが1895年に出版した小説「タイムマシン」にデストピアが登場。やがて、デストピアを扱う小説や作品が続き、デストピア文学というジャンルが生まれます。
デストピア文学は、1920年代以降、ソ連の誕生やファシズムの台頭など、全体主義への懸念が広がった時期に普及しました。
小説に登場するデストピアの多くは、徹底的な管理統制社会として描かれています。その描写は作品ごとに異なりますが、傾向としては以下のような特徴を有しています。
体制側のプロパガンダによって、表向きは理想社会を喧伝。その一方、国民を洗脳し、反体制的国民は治安組織に粛正されます。表現の自由は否定され、体制側が有害と見なす出版物や言論は禁止されます。
表向きの理想社会とは裏腹に、体制側に「社会の担い手と認められた国民」と「そうでない国民」に分断され、経済的・政治的に深刻な格差が生まれます。
前者については体制側が優遇し、後者は往々にしてスラム街を形成します。人口政策も管理され、恋愛や出産も前者には寛容、後者には厳格な規制が敷かれます。
後者に対する言わば「愚民政策」を、前者は当然のこととして是認し、対外的にはその実態が隠蔽されます。
デストピアの特徴、何だかどこかの国の最近の傾向と重なっているように思えるのは、気のせいでしょうか。
筆者は学生時代に短編小説(ショートショート)の大家、星新一の大ファンでした。星新一の作品にも、よくデストピアが登場。そして、デストピア文学の名作と言えば、ジョージ・オーウェルの「1984年」です。
ジョージ・オーウェルは1903年生まれの英国のジャーナリスト・作家。1950年に亡くなりますが、その前年に全体主義的デストピアを描いた「1984年」を出版。
「1984年」の大まかな内容は次のとおりです。1950年代に発生した核戦争を契機に、世界は3つの超大国に分裂。境界地帯での紛争が絶えません。
作品の舞台である超大国のひとつ「オセアニア国」では、思想・言語・結婚・食料など、あらゆる国民生活が管理統制されています。
「テレスクリーン」と呼ばれる双方向TVシステムによって、国民の全ての行動が体制側に監視されています。
役人である主人公が国家体制に疑問を持ち、やがて逮捕・拷問されて転向していくというのが基本的なストーリーです。
オセアニア国の権力者は「ビッグ・ブラザー」。街には肖像があふれていますが、その正体は謎に包まれ、実在するか否かも定かではありません。モデルはスターリンです。
ビッグ・ブラザーが党首を務める絶対政党の3つのスローガンが街の至る所に掲げられています。「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」。
「戦争は平和である」と聞くと「積極的平和主義」という言葉を連想してしまうのは筆者の職業病でしょうか(笑)。
英語の「Big Brother」が「独裁者」の隠語になったのは、この作品が契機です。このほかにも、ダブルシンク(同時に矛盾した考えを信じること)やニュースピーク(イデオロギー的な言い換え)等々、「1984年」に登場するオーウェルによる造語は全体主義を表現する一般的語彙として定着しました。
「1984年」は70以上の言語に翻訳され、全体主義的・管理主義的な思想や社会のことを「オーウェリアン」(オーウェル的世界)と呼ぶようになりました。
話は飛びますが、4月4日の信州大学入学式。山沢清人学長が新入生に対するスピーチで「スマホやめますか、信大生やめますか」と語りかけ、話題になりました。
スマホ依存症が懸念される昨今、若い世代のみならず、大人もスマホにとりつかれています。インターネットでニュースの無料配信を最初に始めたのは、首相のプロパガンダを担う某新聞社。
若者も大人も情報に偏りがあることを認識せずに、某新聞社のニュースや解説・論評を鵜呑みにしています。スマホが「テレスクリーン」のイメージと重なってしまいます。
因みに、スマホの産みの親とも言える故スティーブ・ジョブスは、自分の子供にはスマホの使用を制限し、iPadもiPodも持たせていなかったそうです。
スティーブ・ジョブスにデストピア文学作品を是非書いてほしかったと思います。
(了)