政治経済レポート:OKマガジン(Vol.298)2013.10.30


今国会から予算委員会筆頭理事として仕事をしています。23日には予算委員会で質問。その前半でテーマにした「集団的自衛権」の問題について、複数の読者から「メルマガで取り上げてほしい」とのご要望を頂戴しましたので、以下、要点を解説させて頂きます。一緒にお考え頂ければ幸いです。


1.世界の警察官

安倍首相は第1次安倍内閣当時から安全保障問題に強い関心を示し、今回も「集団的自衛権」について議論を行う「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(以下、法制懇)」を設置。「集団的自衛権」の扱いに関して検討を進めています。

安倍首相は、法制懇の初回(9月17日)で「積極的平和主義こそ日本が背負うべき21世紀の看板である」と発言。

少々気になりましたので、予算委員会では積極的平和主義の定義を尋ねたうえで「安倍首相は米国のような『世界の警察官』を目指しているのか」と質問。「そうではない」という答弁を聞いて、安心しました。

それもそのはず。オバマ大統領ですら、9月10日の演説で「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」と言明。米国が「唯一の超大国」であった時代と同様の対応はできない苦しさ、難しさを吐露しています。

安全保障問題に関しては、威勢のいい意見を述べると「国を憂い、勇ましく、かっこいい」という深層心理や無意識的満足感につながる傾向が強いようです。

とくに最近は、その傾向を知らず知らずのうちに強めている人が多い気がします。日本独特の「空気」の影響もあります(メルマガ前号<297号>参照)。

しかし、戦争や紛争、武力衝突等はない方が良いのは当たり前。実際にそうなった時に、自分や子ども達や次世代が危険に晒される状況を想像できる人であれば、安全保障問題を直視しつつ、論理的かつ理性的に考えることと思います。

安倍首相に「集団的自衛権は自然権ですか」と聞きましたが、明確な回答がなく、どうも知らない(または、質問の意味を理解できていない)様子なのには驚きました。

「個別的自衛権」は自然人(人間)の正当防衛や生存権に擬せられるものであり、「自然権」です。したがって、憲法に書いてあろうがなかろうが「保有し、行使できる」のは当然のこと。

但し、どのような場合に行使するかは個々の事態における判断次第。論理的、理性的、現実的、抑制的等々、様々な視点からの総合的判断が求められます。

一方、「集団的自衛権」は1945年に発効した国連憲章51条において初めて登場した権利(概念)です。つまり「自然権」ではありません(メルマガ295号参照)。

そもそも、国連憲章の基となった1944年の原案(ダンバートン・オークス提案)には明記されていませんでした。

ところが、国連憲章8章に定められる予定だった「地域的機関(地域共同体)」による強制行動(軍事行動等)に安全保障理事会の事前承認が必要とされ、常任理事国の拒否権によって事実上発動できなくなることが懸念されました。

そこで編み出されたアイデア(つまり「手段」)が「集団的自衛権」。米ソ冷戦期には、「集団的自衛権」に基づいて北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ条約機構(WTO)等の軍事的国際組織が編成され、共同防衛体制が構築されました。

しかし、冷戦終結に伴ってWTOは解体され、「集団的自衛権」の歴史的意義は低下。

そして今日、改めて首相が提起する「集団的自衛権」論争。経緯と背景を踏まえたうえで、論理的な対応が求められます。

2.個別的自衛権の重要性

国連憲章に「個別的自衛権」は明記されていません。それは、国家の当然の権利、つまり「自然権」であり、人に認められる「正当防衛」と同じような権利だからです。

「集団的自衛権」の必要性を主張するために提示される多くの事例は、「個別的自衛権」の解釈によって論理的に対応可能です。また、「個別的自衛権」の概念や行使要件を整理・発展させること(国際環境の変化に対応した工夫)を積み上げて今日に至っています。

昭和43年8月10日(第59回国会)において、佐藤栄作首相は次のように述べています。

曰く「私は、アメリカの基地と言っても、日本の領海、領土、領空を侵害しないで、そういう攻撃はないものと思っている。その場合には、私は自衛の権利がある。これは、日本本土に対する攻撃をされたように考えるべきではないかと考える」と答弁。「個別的自衛権」を行使することができ、それは合憲であるとの政府の立場を明確にしています。

つまり、日本の領域内で日本政府の了解なしで武器等の使用や武力行為があれば、それが誰に対してであろうと、「個別的自衛権」で対応できるということです。

また、昭和44年4月8日(第98回国会)には中曽根康弘首相が次のように述べています。

曰く「日本が武力攻撃を受けた場合に、日本が救援、来援するアメリカの艦船等に対して、その日本に対する救援活動が阻害される場合に、日本側がこれを救い出すということは、領海においても、公海においても、憲法に違反しない個別的自衛権の範囲内である」。

つまり、日本が武力攻撃をされている場合には、「個別的自衛権」の行使として公海上で友軍(この場合は米軍)支援が可能ということです。

安倍首相に「この答弁は現在も有効か」と聞いたところ、「有効」との回答。とすれば、残る検討ケースは2つ。読者の皆さんも、それぞれご自分で考えてみてください。

ひとつ(ケース1)は、日本が武力攻撃を受けていない場合の、公海上における友軍に対する日本の「個別的自衛権」のあり方。

もうひとつ(ケース2)は、他国の領域内における友軍への支援。このケースは、日本が武力攻撃を受けている場合(a)と受けていない場合(b)の両方があります。

この2つのケースに「個別的自衛権」で対応できれば問題なさそうですが、対応できない時に「集団的自衛権」が登場します。

ケース2(a)の場合は、日本が武力攻撃を現に受けているわけですから、「個別的自衛権」で対応可能です。

残るはケース1とケース2(b)です。さて、読者の皆さんはどのように考えますか。

この問題を考える際、もうひとつ重要な政府の長年の立場があります。「集団的自衛権」に関して、国民及び国会に対して明示してきた政府の公式見解です。

それは、昭和47年10月14日(第69回国会)における参議院決算委員会資料。次のように明記されています。

「政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っている。(中略)我が憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」。

つまり「集団的自衛権」は「保有すれども、行使できず」ということになっています。

結論的に言えば、明確に「集団的自衛権」を認めるのであれば憲法改正が必要です。それを憲法解釈で認めるとの主張は、政府としてはあり得ない選択です。自らの過去の公式見解を否定するものであり、国民及び国会に対する背信行為です。

ケース1やケース2(b)のような事態に「個別的自衛権」で対応するとすれば、その事態が日本の存亡に関わる重大事態であるとの判断が必要でしょう。

そこが今回の検討のポイントであり、「個別的自衛権」の行使要件を検討することが議論の本質です。

因みに、予算委員会で内閣法制局長官に「集団的自衛権を憲法や憲法的規範に明示している国はあるか」と質問したところ、「ない」との答弁でした。

3.曲学阿世

「個別的自衛権」の行使要件については、1837年の「カロライン号事件」において初めて意識されました。

英国領カナダにおける反乱軍が米国船籍のカロライン号を用いて物資を運搬。このため、英国軍が米国領内で同船を破壊した事件です。

英国は自衛権の行使である旨主張。これに対し、ウェブスター米国務長官が「自衛権行使を正当化するためには、相手方の攻撃が『即座に』『圧倒的で』『他の手段を選択する余地がない』ことが必要である」と反論。

これが自衛権行使の要件として「ウェブスター見解」と呼ばれるようになりました。

「ウェブスター見解」をベースにして、今日では「個別的自衛権」行使の3要件が確立。第1に、急迫不正の侵害があること(急迫性)。第2に、他に対抗手段がないこと(必要性)。第3に、攻撃に対抗する限度にとどめること(均衡性または相当性)。

一方「集団的自衛権」の行使要件については、1986年の国際司法裁判所「ニカラグア事件(末注参照)」判決において、上記「個別的自衛権」の行使要件に加え、以下の2点を明示。第1に、武力攻撃を受けた国がその旨を表明すること(事実表明)。第2に、攻撃を受けた国が第三国に対して支援を要請すること(支援要請)。

一方、第三国(「集団的自衛権」を行使しようとする国)の実体的利益の侵害を要件とするか否かについては、国際司法裁判所の判断は示されず、今日でもこの点に関する学説や見解は2つに分かれています。

ひとつは、第三国の実体的利益侵害が「集団的自衛権」行使の要件として必要とする立場。この場合、第三国も攻撃を受けた国と同様に単独で「個別的自衛権」を行使できる状況でなければ「集団的自衛権」行使は認められないとしています(パターン1)。

もうひとつは、第三国の実体的利益侵害が要件として不要とする立場。この場合「集団的自衛権」は攻撃を受けた国の武力が不十分である場合、国際社会の平和と安全のために行使される共同防衛の権利であるとしています(パターン2)。

パターン2は言わば「世界の警察官」に近い立場。安倍首相は「世界の警察官」になるつもりはないと答弁した以上、パターン1の範疇にとどまるべきであり、そうであれば「個別的自衛権」の範囲内で対応できるような論理構成が可能です。

第一次世界大戦後、1928年(昭和3年)に締結された「パリ不戦条約」。禁止されるべき戦争から「個別的自衛権」の行使たる戦争は留保されると解されています。

「自然権」としての「個別的自衛権」行使の権利を除く「不戦の誓い」を明文化したのが日本の「憲法9条」。「パリ不戦条約」を明文化した国際的・歴史的意義の高い条文と言えます。

「憲法9条」を重んじつつ、国際環境の変化に対しては「自然権」である「個別的自衛権」で対応するのが論理的、合理的と思えます。

「集団的自衛権」は「保有すれども、行使できず」「行使できるようにするためには憲法改正が必要」と、過去において政府及び内閣法制局が国民に説明してきた以上、それを憲法解釈の変更で行使できるようにするというのは「曲学阿世(きょくがくあせい)」。

「曲学阿世」の出典は「史記・儒林伝」。「曲学」とは真理を曲げること。「阿世」とは世に阿る(おもねる)こと。つまり、真理を曲げて、権力や世間や時勢に迎合する言動をすることです。

漢の武帝に召し出された轅固生が儒学者の公孫子に述べた発言が由来とされます。

曰く「公孫子、正学を務めて以て言え、曲学以て世に阿る無かれ(公孫子よ、正しい学問に励んで、はばかることなくありのままを言いなさい。学問を曲げて、世にへつらうべきではない)」。

学問分野以外で使うのは誤りとの指摘もありますが、憲法解釈はまさしく学問の積み上げ。あるいは、国民と政府の相互信頼に基づく真理の積み上げ。「個別的自衛権」「集団的自衛権」の憲法論争において援用するのは間違いではないと思います。

これまで積み上げてきた論理的プロセスを放棄し、時の内閣法制局長官が安易に解釈改憲を志向するならば、「曲学阿世の徒(やから)」の誹りは免れません。

内閣法制局長官の今後を見届けます。

(注)ニカラグアの共産主義政権転覆のため、米国がニカラグア反政府勢力に対して行った一連の軍事的支援及び軍事行動に関する事件。

(了)


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