15日、漸く国会が開会、多くの政策課題についてあまりにも情報不足。国会でシッカリと審議します。ところで、米国の中央銀行であるFRB(連邦準備制度理事会)の新議長にジャネット・イエレン副議長が内定。初の女性議長です。夫はノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフ博士。受賞対象となった博士の「レモン理論」は、情報不足がもたらす弊害を分析したものです。
情報が積極的に開示されないならば、情報を集めなくてはなりません。十分な情報があってこそ、様々な政策課題に対してより的確に対応することが可能となります。
雁の群れは、湿地や砂州で餌を啄(ついば)み、休息をとります。その際、群れに危険が迫らないように、周囲の状況を観察する見張り役がいます。言わば情報収集役。
「奴雁(どがん)」。見張り役の雁のことをそう呼びます。「奴雁」という呼称を広めたのは福沢諭吉翁と言われています。
明治 7(1874)年、雑誌に掲載された福沢翁の論説「人の説を咎(とが)む可らざるの論」。福沢諭吉全集第19巻に収録されています。
曰く「学者は国の奴雁なり。奴雁とは群雁野に在て餌を啄むとき、其内に必ず一羽は首を揚げて四方の様子を窺ひ、不意の難に番をする者あり、之を奴雁と云ふ。学者も亦斯の如し」。
日本を取り巻く内外情勢は常に動いています。直面する政策課題も難問ばかり。雁の群れならぬ国民に危険が迫らないように、学者と言わず、政治家も、官僚も、経営者も、「奴雁」の役割の重要性を認識しなければなりません。
僕が日銀に入行したのは昭和58(1983)年。入行式では前川春雄総裁から辞令を受けました。
その前川総裁、「日銀はまさに国の奴雁であるべきだ」と説いていました。前川総裁自身も、若い時に上司の年頭訓示で福沢翁の奴雁の話と日銀の役割を諭されたと言われています。
総裁を辞した2年後の昭和61(1986)年にとりまとめた高名な「前川レポート」。高度成長後の日本経済のあり方を説きました。内需型への転換、産業構造改革、規制改革、自由化等々、その後の日本の課題を先取りした警世のレポート。まさしく「奴雁」の真骨頂。
群れは餌を啄むために足下に気をとられます。しかし、皆が足下ばかりに集中していると、空から猛禽類に襲われたり、周囲に迫る危険に気がつきません。
「異次元緩和」に奔走する最近の日銀。足下に餌をたくさん撒くことに腐心して、上空や周囲への注意力が衰えては困ります。
「奴雁」の精神が大切なのは、経済の分野だけではありません。あらゆる分野で求められる心構えです。
不確実性の高い政策課題ほど、「奴雁」の精神は重要です。不確実性が高いということは、情報が少ない、情報不足状態と相関性が高いと言えます。
福島第一原発の汚染水問題をはじめ、多くの政策課題が情報不足。15日から始まる国会では「奴雁」の役割を果たします。
9月3日、政府の原子力災害対策本部が「汚染水問題に関する基本方針」を公表。その冒頭、「基本的考え方」として汚染水対策の原則(基本姿勢)が整理されています。
ポイントは3つ。第1に「深刻化する汚染水問題を根本的に解決することが急務」、第2に「国が前面に出て、必要な対策を実行していく」、第3に「逐次的な事後対応ではなく、想定されるリスクを広く洗い出し、予防的かつ重層的に、抜本的な対策を講じる」。
もっともなことです。与野党、官民、各界あげて、実行しなくてはなりません。とくに重要なのは第3のポイント。
国会は「奴雁」として、「想定されるリスク」を洗い出し、「予防的かつ重層的」な対策を考えることが役割。しかし、「想定されるリスク」は枚挙に暇がなく、情報不足も否めません。
全電源喪失によって通常の方法では原子炉を冷却することができなくなった福島第一原発。事故直後は消防車等によって外部から水を「かけ流し」。
その状態では汚染水が発生し続けることになるため、平成23(2011)年6月から「循環注水冷却」方式に転換。「かけ流し」に使った水、つまり燃料に接触した汚染水から放射性物質や塩分を除去し、再び原子炉に戻して使うシステムです。
ところが、1号機から4号機の敷地内には山側から地下水が1日800トンから1000トン流入。その一部が建屋や原子炉内に流入し、循環システムの水量が1日約400トン増加。
そのため、約400トン分の水を循環システムから吸い上げ、浄化後にタンクに貯蔵しています。
現在、貯蔵された汚染水は約35万トン。現在のタンクの総容量は約41万トン。タンクを増設し続けなくてはなりません。
1号機から4号機の山側にあるサブドレン(竪坑)から地下水を汲み上げ、それを海に流せば循環システム内の水量も汚染水も増えません。しかし、山側の地下水も放射性物質に汚染されていることが判明。海に放出することには地元関係者(漁協等)が同意せず、現状では不可。
さらに、既存タンクからも貯蔵していた汚染水の漏れが判明。周辺の地中や港湾外の海に、約1年8カ月にわたって流出し続けていたこともわかりました。
サブドレンは平時(事故前)から存在し、常時1日800トンから1000トンの水を汲み上げて海に放出。この汲み上げ作業をやらないと、水圧で原子炉が持ち上がる(浮き上がる)そうです。驚きました。
汚染水を浄化できれば海への放出も可能となりますが、除去装置の第1弾「サリー」が有効なのはセシウムのみ。第2弾の「ALPS(アルプス、多核種除去設備)」もトリチウムは除去できず。また、トリチウム以外も完全に除去できるわけではありません。
地下水の流入を阻止するための凍土壁、粘土壁、グラベル(砕石)連壁等の技術も確立されたものではなく、実現性も有効性も未知数。
さらには、除去や遮水に関連する技術を内外から公募しているのが実情。基本方針の第3ポイントである「逐次的な事後対応ではなく、想定されるリスクを広く洗い出し、予防的かつ重層的に、抜本的な対策を講じる」ことの実現可能性は定かではありません。
だからこそ、第1ポイント「深刻化する汚染水問題を根本的に解決することが急務」、第2ポイント「国が前面に出て、必要な対策を実行していく」ことが重要になります。「奴雁」の懸念はつきません。
福沢翁の論説「人の説を咎む可らざるの論」、さらに次のように続きます。
曰く「天下の人、夢中になりて、時勢と共に変遷する其中に、独り前後を顧み、今世の有様に注意して、以て後日の得失を論ずるものなり。故に学者の議論は現在其時に当ては効用少なく、多くは後日の利害に関るものなり。甘き今日に居て辛き後日の利害を云ふ時は、其議論必ず世人の耳に逆はざるを得ず」。
今後の原発政策の選択肢は、現状維持・推進、フェイドアウト(漸減・廃止)、即時廃止の3通りです。
即時廃止は、使うことは止めても、現に存在する原発を廃炉にする技術が確立していない以上、正確に表現すれば、「即時使用中止、しかし廃炉したくてもその技術がない。存在する以上、燃料冷却ができない事態が生じれば、使用していなくてもリスクはある」ということです。
現状維持・推進の立場の論拠として、代替(火力等)発電のための原燃料(石油・ガス等)輸入による貿易赤字拡大、原発は低コストであるという「前提」に基づく経済的メリット等が説かれます。
福沢翁の一節、「現在其時に当ては効用少なく、多くは後日の利害に関るもの」、「今日に居て辛き後日の利害」という件(くだり)を噛みしめなくてはなりません。
フェイドアウトさせるためには、原発代替エネルギーの技術開発が不可欠。したがって、昨年7月に政府がとりまとめた「日本再生戦略」に、次の内容を明記。当時の本件の実務責任者として、僕自身が書き込みました。以下のとおりです。
「新たな技術開発と多くの専門スタッフが必要であり、国家プロジェクトとして取り組むことでリソース(人材、資材、資金、技術等)を集中投下することが不可欠である」、「脱原発依存を実現するために『原発からグリーンへ』のエネルギー構造転換を強力に進める『グリーン成長戦略』を最重要課題として位置づける」。
再生可能エネルギーによる原発代替のみならず、東西周波数の統一など、日本が原発問題を超克するためのポイントはいくつもありますが、「それは無理」と簡単に断じる人たちには、是非、福沢翁のさらなる件も噛みしめてほしいと思います。
曰く「これがため、或は虚誕妄説の譏(そしり)を招くことあれども、其妄説なるものは唯、今世の耳に触れて妄説なるのみ。其耳と其説と孰(いずれ)が正しきや、今日を以て裁判す可きに非ず」。
現在の非常識は未来の常識、現在の常識は未来の非常識かもしれません。大切なのは「できない理由を並べるのではなく、どうやったらできるかを考える」こと。日本人、日本社会が一番苦手なことであり、それが日本の様々な問題につながっています。
廃炉技術の開発、使用済燃料の保管・処分等のためには、原子力や原発に関する優れた研究者や技術者を育成していくことが不可欠。また、福島第一原発の事故処理に当たってくれる人たちも確保しなければなりません。
しかし、人材流出は続いています。東電の事故前の例年の退職者数は年間130人前後。ところが、2011年度は465人、2012年度は712人。今年度も流出は続いています。原子力関係学科の大学生、大学院生は志願者、入学者とも激減。
日本の未来のためには、原子力・原発関係の人材育成、事故処理対応要員確保のため、こうした人たちを歓迎・鼓舞する雰囲気と現実的な環境整備が必要です。
昨日の中日新聞に心理学が専門の斉藤環・筑波大学教授へのインタビュー記事が出ていました。見出しは「なぜ『脱原発』に踏み出せない」「日本人の精神性一因」「空気には逆らえない」。
曰く「廃炉技術の温存のために、僕は限定的な再稼働を主張しているのだが、それを言うと原発反対派からもたたかれる。『再稼働を口にするなんて許せん』と。でも、実はそういう姿勢が、原発を温存させてきた構造の反復になるのではないか」(原文のママ)。
冷静で現実的な議論を妨げる日本独特の「空気」。逆もまた真なりです。脱原発を主張すると「経済の現実がわかっていない」と遠巻きにする自称経済人や自称有識者の「空気」。どちらの「空気」も問題です。
「空気」によって冷静で現実的な議論が妨げられると、議論自体を回避する傾向が生まれ、情報不足と根拠のない確信(思い込み)が積み重なっていきます。そして、情報不足の状況が常態化し、その中で次々と重要な選択や判断が行われていきます。
冒頭で紹介したアカロフ博士の「レモン理論」。結論だけ言えば、情報不足や情報の非対称性(例えば、生産者と消費者の間の情報格差)は、悪いものばかりを流通させ、不適切な選択を生み出すことを論証しています。
政策も同じ。情報不足、情報の非対称性の下では、適切な選択や判断をすることはできません。「奴雁」の精神、「奴雁」の存在、「奴雁」の役割は、本当に重要です。
余談ですが、事態が深刻化している「みずほ銀行の不正融資事件」も同じ。組織の「空気」が、みずほ銀行の不適切な意思決定と行動を助長していると思います。
最後に、なぜ「レモン」なのか。「レモン理論」のエッセンスを下記に解説しますが、ご興味のある読者だけご一読ください(「大塚さんのメルマガは難しい」と時々言われますので、あしからず)。
「レモン市場」は、経済学において、財やサービスの品質が消費者に未知であるために、不良品ばかりが出回る市場のことを象徴しています。
「レモン」は英語のスラング(俗語)で質の悪い中古車を意味します。中古車は実際に購入して運転してみないと本当の品質を知ることができないという含意です。また「レモン」には英語で「良くない」「うまくいかない」等の含意もあるようで、転じて「欠陥品」という意味でも使われます。
アカロフ博士は、中古車市場で購入した中古車は故障しやすいといわれる現象のメカニズムを論証しました。
生産者や販売者は取引する財の品質を熟知しているのに対し、消費者や購入者は財の本当の品質についての情報が不足しています(情報の非対称性)。そのため、販売者は購入者の無知につけ込み、悪質な財を良質な財と称して販売。結果的に、購入者は良質な財を買いたがらなくなり、市場には悪質な財ばかりが出回るということです。
具体例です。良いレモンと悪いレモンが半分ずつの市場を想像してください。品質を熟知している販売者は、良いレモンは20ドル、悪いレモンは10ドルで売ってよいと考えます。
購入者は情報不足のため品質を見分けられませんが、良いレモンと悪いレモンが半々ぐらい存在していることは何となくわかっています。このため、購入者にとってレモンの想定価値は、良い物と悪い物の平均である15ドル。したがって、購入者は15ドル以上のレモンは買いません。
購入者の行動を予想する販売者は、20ドルの良いレモンを売ることを断念。悪いレモンだけを販売します。この結果、悪いレモンばかりが市場に出回り、社会全体の厚生は低下します。こうした現象は「逆選抜」と呼ばれます。
現実の様々な問題に当てはめてみると、意外に面白い気づきがあると思います。
(了)