2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催が決まりました。過去数年にわたり、招致活動に尽力された関係者に敬意を表します。2020年までの7年間。開催に向けた課題のみならず、財政や社会保障など、積年の課題も重要な局面を迎える時期。お祭りムードに流されることなく、どちらの課題にもシッカリと取り組まなくてはなりません。
昨日(14日)、米国とロシアがシリアの化学兵器を国際管理下で廃棄させる目標で合意。米国による軍事介入を回避したことは、国際社会にとって合理的で賢明な選択と言えます。
中世ヨーロッパの高名な政治思想家マキアベリ。「マキャベリ」「マキャヴェッリ」など、複数の表記があります。
「君主論」の著者としてよく知られているマキアベリ。「権力のためには手段を選ばない権謀術数主義者」と評されることもあり、毀誉褒貶の多い歴史的人物です。
実際には、15世紀末期から16世紀初頭にかけて、フィレンツェ共和国の政治家、外交官、軍人として、実務を担った能吏です。
そのマキアベリの遺した多くの思想(あるいは政治的原則)の中で、参考にしている2つの言葉があります。
ひとつは「戦争は始めたい時に始められるが、止めたいときには止められない」。賢明な政治家や各界の指導者であれば、誰もが反芻しなければならない言葉です。
このマキアベリの言葉に照らせば、今回の米ロ合意は合理的で賢明な選択。軍事介入への参画を否決した英国議会、オバマ大統領の説得に否定的な姿勢を示した米国議会、及びその背景にあった両国の世論。それぞれに感服しました。
そもそも、シリア情勢を正確に解説できる人はほとんどいません。あまりにも複雑すぎます。当然のことながら、対立勢力同士で認識も主張も異なります。
極めて簡潔に総じて客観的な事実だけを整理すると、内戦の発端は「アラブの春」の影響を受けて始まった2011年3月の反政府デモ。
アサド大統領率いるイスラム教アラウィ派は少数派。反政府勢力は多数派のスンニ派。宗教対立の様相を色濃く呈しています。
反政府勢力には、スンニ派に加え、世俗派、在外シリア人、自由シリア軍(離反兵)、ヌスラ戦線(アルカイダ系武装過激派)なども参画。内部抗争も絶えません。
一方、政府側の背後はシーア派の大国イランが支えます。イランとシリアは反イスラエルを掲げる「抵抗の枢軸」の中心。レバノンのシーア派組織ヒズボラもアサド政権を支援。
さらに、イランとシリアは旧ソ連時代からのロシアの軍事的友好国。シリア沿岸にロシアの唯一の地中海海軍基地(タルトス)を擁していることも影響しています。
「抵抗の枢軸」に「抵抗」しているのは親イスラエル・親米のサウジアラビアやカタール。サウジアラビアはスンニ派の大国でもあります。
また、米国と足並みを揃えたフランスにとって、シリア、イスラエルは有力な武器輸出先。
ここまでで既に頭が混乱した読者も多いと思います。アラウィ派、スンニ派、シーア派等の主張や教義の違いは、イスラム教徒でない人には知る由もありません。ということで、これ以上の解説は止めます。
確信的に言えることは、第1に「化学兵器の製造・保有・使用や人命を奪うことは許されない」ということ、第2に「戦争は始めたい時に始められるが、止めたいときには止められない」ということ。
そういう立場から、米ロ合意を歓迎、評価したいと思います。
もうひとつ参考にしているマキアベリの言葉。曰く「フォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要である」。
「フォルトゥーナ(Fortuna)」は「運(運命)」のこと。一方、「ヴィルトゥ(Virtu)」は「徳」「技量」などと訳されます。
「運も実力のうち」とよく言いますが、その「運」は偶然に巡ってくるものではなく、自らの「徳」「技量」で手繰り寄せるものである、というようなことを示唆しています。
国にとって「運」のひとつは、国や国民が戦争などの災禍に巻き込まれることなく、豊で平和な社会が実現すること。このことに反対する人はいないでしょう。
国の指導者が「運」を手繰り寄せるためには、「徳」「技量」、言い換えれば「政治的判断」「政治的手腕」が求められます。
8月31日のニュースで、「安倍首相は、米国がシリアへの軍事介入に踏み切った時の対処方針として、『支持』を表明する方向で最終調整に入った」と報道されました。
一方、同じ頃、世論調査では米国のシリア軍事介入には反対の方が多いとの報道もありました。英米世論と同様に、国内世論の合理的で賢明な傾向に安堵しました。
他の政策課題や政治的争点でも、マスコミが世論を煽ることなく、国民が合理的で賢明な傾向を生み出すことのできる社会全体の雰囲気が大切です。
昨日(9月14日)の朝日新聞朝刊4面に、軍事ジャーナリストの田岡俊次氏のインタビュー記事が掲載されていました。タイトルは「問う、集団的自衛権」。
記事の見出しは「タカ派の平和ぼけ危険」。示唆と含蓄に富み、久しぶりに論理的で明解な記事を読んだと痛快になりました。ご興味がある方はご覧いただきたいと思いますが、最後の結論的発言は以下のとおりです(原文のママ)。
「中国が尖閣諸島の領有権を主張しながらも『棚上げでいい』と言うのは、日本の実効支配を認めるに等しい。互恵関係回復に妥当な落としどころだ」。
「首相は中国包囲網をつくろうとしているようだが、米国、韓国、豪州は加わらず、成功しないだろう」。
「安全保障の要諦は敵を減らすことだ。敵になりそうな相手はなんとか中立にすることが大切で、あえて敵をつくるのは愚の骨頂だ」。
「タカ派の平和ぼけは本当に危ない」。
個人的には「座布団10枚」という読後感。シリア問題において、仮に米国が軍事介入に踏み切った場合、即座に「支持」を表明することは、「ヴィルトゥ」の観点から「フォルトゥーナ」を手繰り寄せることになったでしょうか。国民も政治家も、よくよく考えるべき問題です。
「君主論」に並ぶマキアベリの名作は「リウィウス論(政略論)」。日本では「ローマ史論」と呼ばれることも多いようです。
古代ローマの歴史家リウィウスによる全140巻に及ぶ「ローマ建国史」。15世紀に発見された第1巻から第10巻に記された史実を踏まえ、政治体制や政治思想に関する主張を展開しています。
一貫して現実主義を重んじ、政治の「目的」と「手段」の分離、「目的」と「手段」の適切な制御が必要であると説いています。
前述の田岡俊次氏のインタビュー記事のテーマは「集団的自衛権」。政治の重要な「目的」は、言うまでもなく、国民の生命と財産の安全を守り、国家の3要素(国民、領土、主権)を守ることです。
「集団的自衛権」は明らかにそのための「手段」のひとつ。「手段」をどのように使うかは指導者の「ヴィルトゥ」次第。国民と国に「フォルトゥーナ」を手繰り寄せるか否かは、指導者の判断と力量にかかっています。
「集団的自衛権」は、1945年に発効した国連憲章第51条において初めて登場した権利(概念)です。
そもそも、国連憲章の基となった1944年の原案(ダンバートン・オークス提案)には明記されていませんでした。
一方、国連憲章第8章に定められる予定だった「地域的機関(地域共同体)」による強制行動(軍事行動等)。安全保障理事会の事前承認が必要とされ、常任理事国の拒否権によって事実上発動できなくなることが懸念されました。
そこで編み出されたアイデア(つまり「手段」)が「集団的自衛権」。米ソ冷戦期には、「集団的自衛権」に基づいて北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ条約機構(WTO)等の軍事的国際組織が編成され、共同防衛体制が構築されました。
しかし、冷戦終結に伴ってWTOは解体され、「集団的自衛権」の歴史的意義は低下していきました。
そして今日、改めて首相が提起する「集団的自衛権」論争。この「手段」が「目的」に資するか否か、代替策の有無がポイントです。
国連憲章には「個別的自衛権」は明記されていません。それは、国家の当然の権利、つまり自然権であり、人に認められる「正当防衛」と同じような権利だからです。
「集団的自衛権」の必要性を主張するために提示される事例の多くは、「個別的自衛権」の解釈によって論理的に対応可能。つまり、代替策があります。
「目的」と「手段」を混同しないことが肝要です。「手段」に固執するあまり、「目的」を害する結果となっては本末転倒。
指導者の「ヴィルトゥ」が「フォルトゥーナ」を左右します。ちなみに「フォルトゥーナ」はローマ神話の「運命の女神」。英語の「Fortune」の語源です。
絵画に描かれている「運命の女神」の姿。運命を操る舵を持ち、運命が不安定なことを表す球体に乗り、運命の移ろい易さを示す羽根のついた靴をはき、底の抜けた壺を持って運命(幸運)が満ちることはないことを示唆。チャンスは後からでは掴めない(やり直しはきかない)ことを象徴するように、髪は全て前で束ねられています。
「君主論」には君主の気質について、次のようにも記されています。曰く「美徳であっても破滅に通じることがあり、悪徳であっても安全と繁栄がもたらされることがある」。政治とは奥深いものです。
(了)