政治経済レポート:OKマガジン(Vol.513)2023.6.27

ワグネル創設者プリゴジンの反乱騒動には驚きましたが、プーチンはベラルーシに向かったプリゴジン搭乗の飛行機を撃墜せず。そうしようと思えばできたはずですが、しなかった背景には何か理由がありそうです。プーチンとプリゴジンは本当に対立しているのか、深読みが必要です。ロシアが混乱すれば、中国の対応も変わります。この間、中国詣でを続ける米財界人と米政府高官。米中関係も深層で何か起きているような気がします。外交下手と言われる日本。「ニクソン・ショック」の二の舞とならないよう、これも深読みが必要です。今回は第3項の「ニクソン・ショック」はいつも以上に長文になりますが、今後のためにこの際整理しておきます。ご興味があればご一読ください。


1.マスクとゲイツ

今年に入って米大企業の大物財界人が続々と訪中。アップルのティム・クック、JPモルガン・チェースのジェイミー・ダイモン、スターバックスのラクスマン・ナラシムハン、テスラのイーロン・マスク等々、いずれもCEO(最高経営責任者)です。

ティム・クックは李強首相と、イーロン・マスクは丁薛祥(ていせつしょう)筆頭副首相や秦剛(しんごう)外相(国務委員)と会談しました。丁薛祥は習近平主席の側近として知られ、新チャイナ・セブンの1人です。

米財界人は異口同音に「中国経済とのデカップリング(切り離し)、サプライチェーン断絶に反対」と発言し、米中経済の繋がりの重要性を強調しました。

バイデン政権は中国に厳しい制裁を加え、対中包囲網を構築しています。しかし、米経済、とりわけ製造業の中国依存は著しく、上述の発言は米企業側が米政権の対中制裁や包囲網に不満を抱いている証左です。

中国側には外資を呼び込んで景気回復に繋げたいという事情があります。中国経済デカップリング等の対中圧力を押し止めるためにも、中国メディアは米財界人のそうした発言を大きく報じました。

今月16日、米マイクロソフトのビル・ゲイツ氏が訪中し、米財界人で初めて習近平主席と会談。習主席は「今年北京であった最初の米国の友人だ。中米関係の基礎は民間にある」「中国は米国民に希望を託しており、両国人民の友好を望む」「米政府ではなく米経済界に期待している」「中国は国を強くしても覇権は握らない」「世界各国と広範囲の科学技術イノベーションにおいて協力していく」等々の発言を行い、ゲイツ氏を歓待しました。

会談には、米国と厳しく向き合い、歯に衣着せぬ物言いで対米ツートップを務める秦剛外相と王毅政治局員も同席しました。

習近平主席が外国民間企業の経営者等と会談するのは珍しいことです。なぜ習主席はゲイツ氏との会談を行ったのでしょうか。

習主席とゲイツ氏は、2013年の海南省ボアオフォーラムで対面したのに続き、2015年には習主席が訪米時にマイクロソフト社を訪問してゲイツ氏と再会。2020年初には新型コロナウイルス対策としてゲイツ氏の主宰する財団が中国に500万ドルの支援を約束。習主席は感謝状をゲイツ氏に送っています。

今回の対面は8年振りでしたが、香港紙が「高ランクの礼遇」と報道したとおり、習主席はゲイツ氏を極めて厚遇しました。

次項で取り上げますが、習主席がゲイツ氏と会った2日後にはブリンケン国務長官の訪中が控えていました。米中融和を求めるメッセージだったとも言えますが、一方でブリンケン国務長官の扱いとの格差を演出する目的だったとも考えられます。

また、習主席はマスク氏には会わなかった一方でゲイツ氏に会ったこと、2人の扱いに差をつけた点は注目に値します。

マスク氏は上海に大規なテスラEV工場を設営しているほか、ゼロコロナ政策や台湾問題等でも中国の政策を擁護する発言を続け、秋波を送り続けています。しかし、EVやバッテリー等は中国がリードしている分野であり、中国にとってテスラの技術的価値は必ずしも高くありません。

一方、ゲイツ氏は早くから中国で事業展開してきたことから、中国側から「老朋友(古い友人)」と呼ばれる関係であるほか、ゲイツ氏が注力しているChat GPT等のAI技術を囲い込むことは中国の産業や軍事力にとって重要性を増しています。訪中する米財界人の中でゲイツ氏を特別扱いする戦略的価値があるということです。

また、台湾統一を目指す習主席は、マスク氏が構築した衛星コンステレーション「スターリンク」に対して懸念を抱いているとの情報も聞きます。

ロシアのウクライナ侵攻の初動において、マスク氏が「スターリンク」利用をウクライナに認めたことが、ウクライナの通信網、インターネット網を破壊して速やかに勝利を収めるロシアの戦略が失敗した原因だからです。

将来台湾で同様の事態が生じる場合、スターリンクが中国の軍事作戦や台湾封鎖戦略の障害になり得ると警戒しているようです。

中国人民解放軍は既に「GW」というコード名で独自の衛星コンステレーション構築を開始。高度700kmに衛星を打ち上げ、高度約550kmに配置されている「スターリンク」衛星群を有事の際に機能不全に陥らせることを狙っていると言われています。

2.ブリンケンとゲイツ

複数の米政府高官が訪中を中国側に打診しているそうです。レモンド商務長官は経済界の不満解消のために、イエレン財務長官は米国債購入に関して、ケリー米大統領特使は環境問題協議を目的に、それぞれ打診中です。

そうした中でブリンケン国務長官が訪中。中国側は渋々ながらまずは国務長官を受け入れ、今後段階的に他の高官の訪中も認めるようです。因みに、国務長官の訪中は2月の偵察気球撃墜問題で延期され、去る18日、4ヶ月遅れで実現しました。

米国は「ひとつの中国原則を守る」「台湾独立を支援しない」と表向き言いながら、実際の行動は違うというのが中国側の不満です。米国は対中包囲網を形成しており、台湾独立派を支援して米政府高官の訪台も黙認。そうした中でのブリンケン訪中です。

18日、北京空港に降り立ったブリンケン国務長官は当然ながら淡泊な扱いを受け、そのまま秦剛外相と長時間に亘り会談。翌19日、王毅政治局員と会談。報道によれば、両会談で中国側は「一方的な制裁はやめろ」「台湾問題は中国の内政問題であり、一歩たりとも中国は譲らない」「米国は他国への干渉をやめろ」という強い警告を発したと伝わります。

王毅政治局員との会談後、ブリンケン国務長官は習近平主席と会いました。その時の席の配置を写真で見て驚きました。習主席が長いテーブルの中央(言わば議長席)に座り、両側に米中両国の外交関係者を並ばせ、ブリンケン国務長官は格下扱いでした。

主席と国務長官ですから当然と言えば当然ですが、2017年3月にトランプ政権のティラソン国務長官と会った時は対等な座席配置で座っており、ブリンケン国務長官への対応とは明らかに違います。

その3日前、16日に習主席がゲイツ氏と会った様子と比較してみても、その扱い方の違いは歴然としています。

ゲイツ氏はティラソン国務長官と同様に対等な座席配置で会談。双方とも笑顔で話している写真が公開されました。一方、ブリンケン国務長官の握手時や会談時の写真の表情は硬く、強ばっています。

写真を見る限り、むしろ習近平主席の方が柔らかな表情を見せています。言うべきことは秦剛外相と王毅政治局員が十分に言ったので、主席としては寛容なところを見せておいた方が得策と言わんばかりの雰囲気が写真から感じ取れます。

座席の配置、立ち位置(必ず左に立って握手を求められているような構図)、表情等、中国は外国要人との会談時には周到な演出と序列付けをするのが常です。日本の外務省も含め、各国外交部門はそういう点で中国との事前の鬩ぎ合いを互角に渡り合えていないのが実情でしょう。

米国にとって不本意な扱い方をされたものの、とにかくブリンケン国務長官は習近平主席と会談しました。習近平主席があえてブリンケン国務長官と会った背景には、台湾情勢も影響していると推測できます。

それは来年1月に行われる台湾の総統選挙対策です。台湾では総統選挙に向けて、独立志向が強い親米民進党(現在は与党)の頼清徳氏のほか、親中国民党の侯友宜(野党)及び中立の台湾民衆党の柯文哲(野党)の3人が立候補を表明しています。

民進党頼氏の公認決定が3月と早かったのに対し、国民党候氏と台湾民衆党柯氏の公認決定は5月と出遅れました。また、野党から2人の立候補では野党支持票が割れることから、現状では民進党頼氏が勝つ可能性が高いと言えます。

習近平主席の対米姿勢は台湾有権者の投票行動に大きく影響します。ここは対米融和姿勢を見せ、ブリンケン国務長官と会談することは、与党(独立親米派)支持者の警戒を緩和し、野党候補(親中派・中立派)に有利に働くとの思惑があるものと推察します。

まずはブリンケン国務長官と会談し、今年11月に米国で開催されるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議に出席してバイデン大統領との首脳会談に臨む姿を台湾有権者に見せることを考えての戦略と想像します。

ブリンケン国務長官の訪中に先駆け、14日、キャンベル・インド太平洋調整官が「米政府は衝突リスク低減に向けた危機管理メカニズム構築に関心がある」と発言したり、クリテンブリンク国務次官補(東アジア・太平洋担当)が「可能な限り責任ある方法で米中の競争を管理したい」「米中の連絡ルートを確立し、競争が紛争に陥らないようにする」と語り、米国側も中国側に秋波を送っています。

ブリンケン国務長官訪中で米中両国は「対立の中での対話」局面に入りました。今後も対立を続けつつも、両国とも水面下で打開策、隘路を探ることでしょう。

ゲイツ氏やマスク氏のような有力IT企業家達は、米中対立の中で最大限の利益を得ようとしています。IT技術と通信ネットワークを掌握した有力IT企業家達も、水面下で米中融和を模索し、米政府の方向性に影響を与えるでしょう。

日本にとって怖いのは「日本頭越し」の米中融和です。かつての「ニクソン・ショック」が脳裏を過ります。

3.ニクソン・ショック

1971年7月15日、米国ニクソン大統領が極秘裏に進めてきた米中交渉を明らかにし、中国訪問計画を突然発表。世界を驚かせたのが「ニクソン・ショック」です。以下、経緯です。

中国では日中戦争期に国民党と共産党とが共同戦線を張りましたが、日本敗戦後に国共内戦が始まり、共産党が勝利。国民党は台湾に逃れ、台湾の中華民国と共産党一党独裁の中華人民共和国(1949年10月1日建国)に分かれました。

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争で、中国は人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派遣して米軍・韓国軍を主体とした国連軍と交戦。以後、米中は敵対関係が続いていました。

共産主義中ソ両国は、スターリン時代は中ソ友好同盟相互援助条約(1950年締結)に基づく同盟関係にありましたので、日米安保体制も中ソ同盟への対抗を企図したものでした。

しかしスターリン死亡(1953年)後に指導者となったフルシチョフが1956年にスターリン批判を行い、外交や共産主義運動の方針を巡って中ソ両国は対立。

1960年代には中国、フランス等が独自外交を展開し、国際社会は単純な東西対立とは異なる状況になります。米国はベトナム戦争を抱え、ソ連は衛星国チェコスロバキアで自由化を求める「プラハの春」に直面、米ソ両国の覇権も揺らいでいました。

中国でも1966年から文化大革命が勃発して国内が混乱する中、1969年3月、ウスリー河中州にある珍宝島(ダマンスキー島)で国境線を巡って中ソ両国が武力衝突。中国はソ連を敵と考えるようになりました。

この間、1965年にベトナム戦争勃発。米国の対中封じ込め政策の帰結としての戦争でしたが、やがて泥沼化。米国はベトナム戦争と対中政策の根本的な見直しを迫られます。

1966年、米国上下両院外交委員会で著名な国際政治学者や専門家が対中政策の転換の必要性を指摘。翌1967年、反共闘士として知られていたニクソンが「フォーリン・アフェアーズ」誌寄稿において「中国のような巨大な領土と人口を持つ国を国際社会で孤立させておくことはできない」と述べ、驚きをもって受け止められました。

1968年、米国ではニクソンが大統領選で勝利。ニクソンは米軍のベトナム戦争からの名誉ある撤退を公約としていました。

ニクソンが大統領に就任した1969年、中ソは最も戦争の危険を孕んでいました。毛沢東主席は文革で失脚中の四元帥(陳毅・聶栄臻・徐向前・葉剣英)に外交方針の戦略的分析を指示。

四元帥と毛沢東は6月から9月の間に16回の議論を行い、米中ソ三大国の相互関係を分析。最終的に「ソ連が中国への侵略戦争を開始するかどうかは米国の姿勢如何」との結論に至ります。

つまり、米中でソ連を牽制することが肝要と判断。米国と交渉を行うこと、その際に台湾返還問題を前提条件にすべきではないこと等々の内容を記した報告書が纏められました。

この間、米国は北ベトナムとの対話が進まない一方、カンボジアやラオスに侵攻し、むしろインドシナ戦線は拡大。また、1970年秋の国連総会で中国加盟を認めるアルバニア決議案が可決され、米国も外交戦略の見直しを迫られていました。

ニクソンはベトナム戦争からの撤退に際し、米国が戦後の国際秩序構築の主導権を握ることが重要と考え、そのためには米国にとって中国は「重要な役割を果たすパートナー」と考え始めたようです。

米国にとっては、中ソ戦争でソ連が勝って米国以上の大国になることが一番望ましくない展開であり、米中関係を改善することは米国にとって利益と考えました。

中ソが緊張関係にあり、中国が対米関係を検討していた時期と同じ1969年8月の国家安全保障会議で、ニクソンは「中国が中ソ戦争で粉砕されれば米国の国益に反する」と主張。米中首脳はほぼ同時期に同じ方向で外交政策の見直しを検討していたことになります。

これに先立つ7月から8月にかけ、ニクソン大統領が各国歴訪の際に、パキスタンのハーン大統領とルーマニアのチャウシェスク大統領に自分が中国指導者との交流を求めている旨の伝言を依頼しました。

実は米中は20年間ワルシャワで細々と大使級会談を行ってパイプを繋いでいました。何度も中断したものの、当時の米中間のチャネルとしては唯一のものでした。

文革後の1967年3月から中断していた大使級会談は、ニクソン大統領の伝言が奏効して1970年1月20日に再開。以後、米軍のカンボジア侵攻等でキャンセルされた会合もあったものの、交渉は続いていました。

1970年8月23日から9月6日に開かれた中国共産党中央委員会総会(第九期二中全会)で毛沢東の支持を得た周恩来は、林彪を抑えて対米接近路線に転換。以後、米国に秋波を送り始めます。

毛沢東は10月の国慶節に中国通の米国ジャーナリストであるエドガー・スノーを招待。12月にはライフ誌が「ニクソン訪中を歓迎する」という毛沢東のインタビュー記事を掲載しました。周恩来首相は10月にパキスタンのカーン大統領、11月にルーマニア副首相と会い、米国と間接的に意思疎通を図ります。

12月8日、パキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を届けました。内容は米国からの特使派遣を内諾するものでした。翌1971年1月、ルーマニア大使からも同様のメッセージが届きました。キッシンジャーは、両メッセージの内容に、台湾問題は記されていましたがベトナム戦争には触れていないことに注目しました。

2月、米国は外交教書で初めて「中華人民共和国」の国名を使用。3月、貿易及び人的交流制限を緩和する措置を発表。

この間、中国は無反応でした。同時期に米国がラオスにも侵攻を開始したからです。両国とも最高首脳しか米中対話の進展を知らなかったことから、それぞれの軍部、外交当局は独自の動きをしていたということです。

この時期、4月に日本の名古屋で開催される世界卓球選手権大会に選手団を派遣するかどうかが中国外交部で論議されていました。そして周恩来が派遣を決定。文革以来、久し振りの中国選手団の国際大会出場です。

大会において、米国選手団から中国を訪問したいと提案があり、中国代表団は本国に連絡。中国外交部は断る方向で検討しましたが、毛沢東が受け入れを指示。米国選手団を大会後に中国側が招待するという「ピンポン外交」が展開されました。これが米国側のメッセージに対する中国の回答でもありました。

そして4月21日、正式な親書がパキスタン経由でホワイトハウスに届き、周恩来から特使受入を了解する旨が表明されました。特使は、キッシンジャー補佐官、ロジャーズ国務長官、あるいは大統領本人をという内容で、関係回復の条件として台湾からの米軍撤退にのみ言及し、台湾復帰には言及していませんでした。

両国首脳とも、それぞれの国内の米中接近反対派、親ソ派への対応に苦慮。5月10日、米国は周恩来宛てにニクソン招待を受諾すること、その前に準備のため特使(キッシンジャー補佐官)を極秘裏に派遣することを伝えました。

一方中国では、周恩来が毛沢東と連携して5月26日に党政治局会議を開いて「中米会談に関する報告」を起草。29日に採択されて毛沢東と林彪に報告して裁可を受けました。6月2日、「正式にニクソン訪中を招請してキッシンジャーが秘密裏に中国を訪問して必要な各種準備作業を行うことを歓迎する」旨の親書が米国に届きました。

わずか1年足らずの間に、米中外交は和解不可能な紛争状態から大統領の訪中準備のために特使が北京を訪問するまでに進展しました。

キッシンジャー訪中は極秘裏に行う必要がありました。サイゴン、バンコク、ニューデリー、そしてパキスタンのラウルピンディを経由する外遊ルート(その後はパリでの北ベトナムとの会談を予定)の途上、「ラウルピンディで体調が崩れ48時間治療に専念するために休息する」こととしました。

7月9日にキッシンジャーはラウルビンディからパキスタン政府専用機で北京入り、そして周恩来首相と当日の16時30分から23時20分の7時間と、翌日正午から18時30分までの6時間、合計13時間に亘って会談。

会談では、台湾、インドシナ、日本、北朝鮮、ソ連、南アジア、大統領訪問、米中の今後の連絡方法等について話し合いが行われました。

懸案であった台湾問題については「すぐに解決すべき問題ではない」とされ、米軍の台湾撤退はインドシナ紛争終了後という条件付きで合意。

また、米国が「ひとつの中国」という概念を段階的に受け入れ、中国はその実行時期について柔軟な姿勢を示すことについて合意。キッシジャーは巧みに台湾問題とインドシナ問題をリンクさせ、周恩来もそのロジックに一定の理解を示したことになります。

日本については、周恩来が当時の日本及び佐藤首相に対して厳しい評価をしていたため、キッシンジャーから「日米安保条約は日本の軍事力を抑えるためにある」という説明がなされたそうです。

再度極秘裏にラウルビンディに戻ったキッシンジャーは2日遅れでパリに入り、北ベトナムとの会談を経て7月13日に帰国。

すぐにカリフォルニア州サンクレメンテ「西のホワイトハウス(大統領別邸)」でニクソンに報告。2日後の7月15日21時から、ニクソン大統領はテレビ演説を行いました。

その内容は、7月9日からキッシンジャー補佐官を極秘裏に中国に派遣し、周恩来首相と両国関係正常化について議論させたこと、大統領自身が翌年5月までに訪中すること、の2点を発表。この電撃的発表が世界を驚かせた「ニクソン・ショック」です。

10月、再度キッシンジャーが訪中して周恩来と会談。共同コミュニケの草案作成。翌1972年1月、ヘイグ副補佐官が衛星放送中継等の打ち合わせを含めた最終調整のため訪中。

そして1972年2月21日、ニクソン大統領は北京を訪問し、第2次大戦後初めて両国首脳が会談。ニクソン到着の模様はテレビで全世界に同時中継されました。

ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は周恩来同席の下、毛沢東主席と会談。しかし、これは儀礼的なもので、実質協議は周恩来が取り仕切ることを誰もが理解していました。

その後、周恩来首相と5回にわたって会談。メインテーマは台湾でしたが、その他にもベトナムを含むインドシナ、国交正常化、ソ連、日本及び日米同盟、朝鮮半島、インド・パキスタン等、多岐にわたったそうです。

それぞれのテーマについて共同コミュニケの素案はできていましたが、米国内部の軋轢が凄かったと伝わります。つまり、極秘裏にキッシンジャーが進めていたことなので、ロジャーズ国務長官や国務省幹部は殆どその内容を知らされていなかったためです。キッシンジャーとロジャーズとの確執はその後も尾を引くことになりました。

訪中最終日2月28日に上海で米中共同コミュニケが発表され、両国はそれまでの敵対関係に終止符をうち、国交正常化に向けて関係緊密化に努めることになりました。

最も難しい問題は、もちろん台湾の扱いでした。米国は「中国はひとつであり、中国は台湾は中国の一部であると考えていることを認識した。台湾から米軍の武装力と軍事施設を撤去する最終目標を確認する」と記しました。中国側も米台防衛条約については言及せず、同条約破棄を共同コミュニケに盛り込まないことで譲歩しました。

交渉の過程でニクソンは周恩来に「台湾5原則」を提示。その第3は「日本の台湾進出を認めないこと」。当時の米中両国が日本をどのように見ていたかが伺われます。

米中和解は米ソ関係に影響を与えました。ニクソン訪中から3ヶ月後の5月、ニクソンは米大統領として初めて訪ソ。膠着状態であったSALT1(第一次戦略兵器制限協定)とABM(弾道弾迎撃ミサイル)条約を結ぶことに成功。中央ヨーロッパに展開している兵力も含め、米ソ間のデタント(緊張緩和)が進みました。

ニクソン訪中から1年後、2期目の大統領就任式を行った頃には、1期目就任式の4年前には考えられなかったほど、米国にとって望ましい国際環境が生まれていました。

ニクソンの後任であるフォード大統領も訪中し、その後を継いだカーター大統領時代の1979年1月、米中国交正常化が実現しました。

ニクソン大統領はベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を目指していました。米国の威信を傷つけず、米国の利益を損なわないような撤退戦略です。

訪中から3ヶ月後、講和条件を有利にすべくニクソン大統領は北爆を再開させ、米空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃断行を決定し、無差別攻撃を開始。

この空爆や機雷封鎖により、北ベトナムの海軍と空軍はほぼ全滅。ニクソンの目論見通り、空爆によって北ベトナムは戦闘不能状態に陥り、講和交渉に応じざるを得ない状況に追い込まれました。1973年1月、米越和平協定が成立し、3月末に米軍は撤退しました。

この間、北ベトナムは米軍による北爆は中国が黙認(または了解)したものと解釈し、「中国の裏切り行為」と受け止めました。

北ベトナムの疑念を裏付けるように、中国は翌1974年1月に北ベトナム戦線から遠く離れた西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告なしに奇襲攻撃(西沙諸島の戦い)。独立以来の南ベトナム領で、石油等の地下資源があると推測されていた西沙諸島一帯を占領。領有権問題に発展しました。

1975年4月30日にサイゴンが陥落し、北側が南北ベトナムを統一。1978年にソ越友好協力条約を締結してベトナムはソ連に接近し、1979年の中越戦争でインドシナ半島は中国とベトナムが対立する時代に入りました。1984年の中越国境紛争、1988年のスプラトリー諸島海戦等を経て、今日に至っています。

ベトナムは今日ではかつてベトナム戦争で戦った米国と関係改善が進み、同盟国であった中国と領有権問題で対立しています。

「ニクソン・ショック」に最も衝撃を受けたのは日本でした。その時点で英仏伊加は既に中国を承認しており、西独と日本は未承認。特に日本は台湾と関係が深く、まさに寝耳に水。しかもニクソンは別の理由から日本への事前連絡をしませんでした。

ニクソン大統領は日米繊維問題で全く動かない佐藤首相に怒っていたそうです。米国務省は1日前に前駐日大使だったジョンソン国務次官を日本に派遣しようとしたそうですが、ニクソンが反対。ジョンソン次官はワシントン駐在の牛場信彦駐米大使にニクソンのTV演説のわずか3分前に電話で発表内容を伝えました。

牛場大使は「朝海の悪夢が現実になった」として唸ったと伝わります。朝海浩一郎元駐米大使が常々「日本にとっての悪夢は、知らぬ間に日本の頭越しに米中が手を握る状態が訪れることだ」と語っていたからです。ジョンソン国務次官は後に、日米両国の信頼関係と国益を損なったとして、ニクソンとキッシンジャーを批判しています。

その後、ニクソンは日米繊維交渉妥結後の1972年1月に訪米した佐藤首相と会談。佐藤首相は日中関係の打開には動けず、後任の田中角栄首相がニクソン訪中から7ヶ月後の1972年9月に北京を訪問して日中国交正常化を果たすこととなります。

「ニクソン・ショック」の黒子役を果たしたキッシンジャーは、ニクソンが政権に就くと同時に外交問題のエキスパートとして登用しました。

ハーバード大学教授であったキッシンジャーは、当時共和党内のニクソンの政敵であったロックフェラーの外交顧問をしていたことから「意外な人事」と言われました。

キッシンジャーは「力の均衡」論者で、イデオロギー的外交を嫌い、冷徹に国家間の「力の均衡」を保つことに腐心。また、国務省の職業外交官を嫌い、徹底した秘密保持と個人的人脈を重んじるタイプでした。

脱イデオロギー的な地政学、バランス・オブ・パワーという発想は、当時の国務省や外交官も馴染みがなく、米国外交の主流を占める考え方ではありませんでした。

キッシンジャーは「中国の姿勢について専門家の分析が間違っていること」「中国がソ連の脅威を最大の関心事としていること」「中国が米国にアジアに留まってもらいたいと望んでいること」等を、国務省や職業外交官は見抜いていないと指摘。

ベトナム戦争処理と合わせて、米国の力を誇示するとともに、国際外交の場で米国の主導権を確保するための戦略として、米ソ中三極構造を利用して米中関係正常化に動くことをニクソンに進言したのです。1960年代以降、冷戦終結までの展開は、キッシジャーの慧眼は当を得ていたと言えます。

さて、キッシンジャーも想像しなかった中国台頭に直面して米中対立に陥っている2023年現在。日本は「新たなニクソン・ショック」に茫然と立ち尽くすことがないよう、十分な情報収集と分析、及び戦略的な外交に徹しなければなりません。

(了)

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